読むと旅行したくなる純愛小説

恋に不器用な男の書いた純愛ストーリー


3月10日
 

 霧笛の音で目が覚めたとき、麻由美はまだ寝息をたてていた。
麻由美を起こさないようにベランダに出ると潮風が気持ちよかった。
 

「おはよう・・・早いのね。」
 

自然光の中で見る彼女は一段とすてきだった。
 

「ごめん、起こしちゃった?いつもこの時間はジョギングから帰ってきて、ちょうどシャワーを浴びている頃かな・・・」

「あなたが?・・・ジョギング?・・・シャワー?・・・信じられない・・・」

ある種のショックを感じていた。
どうも記憶を失う前の私と今では相当のギャップがあるようだ。
 

「タバコも止めたのね。あんなにヘビースモーカーだったのに・・・何度も禁煙を試みて何度も挫折を味わったのに、自分がヘビースモーカーだったことさぇ覚えていないなんて・・・」
 

もし禁煙したければ記憶を失うといいかもしれない・・・
 

「そろそろ帰るよ・・・」
 

麻由美は、帰ろうとする私の背中に頬を押し当てて言った。
 

「また、会える?」

「もちろん・・・また、連絡するよ。」
 

青山のマンションに戻ったのは朝の8時だった。
誰にも気づかれないようにそっと入り自分の部屋を押し開けた。
 

「のりこ・・・どうしたんだ?」
 

目を真っ赤に泣きはらしたのりこが立っていた。
 

「遅いから心配してずっと待っていたんだもん!」

「ばかだな、夜通し飲んでいたんだよ。」

「麻生さんと?」

「あぁ・・・でも、なんでもないんだよ彼女とは。」

「なんでも、ないって?」

「つまりだな・・・その・・・」
 

・・・自分でも何を言っているのかわからなかった。
 

「・・・信じてるよ・・・」
 

私は、のりこを抱きしめた。
妹のように思っていたのりこがどんどん女になってゆく。

 

 田口から電話があったのは10時を過ぎていた。
昨日のことを報告して、今日は深大寺の陸橋あたりに行ってみるつもりだと伝えた。
田口の方はあまり進展していないようだった。

のりこは、そのまま起きていた。
 

「ごんべぇさん、今からまもる君に会うんだ。でもママには内緒ね。」
 

そういって飛び出していった。

私は、いつもより遅いシャワーを浴びてマンションを出たのは12時を過ぎてからだった。

先に柿の木坂によって車で行くことにした。

車は、深いグリーンのカルマンギアだった。

案の定、エンジンが言うことを聞かない。
かかりそうでかからずあきらめかけていたところへ、若い学生風の男が近づいてきた。
 

「手伝いましょうか?」
 

彼の車とケーブルをつないでエンジンをかけた。
頼りなかったが、心地いい音だった。
 

「バッテリーを早めにかえた方がいいかも知れませんね。」

「ありがとう、そうするよ。」
 

安定するまで、しばらくエンジンをかけたままじっとしていた。

記憶を失った私の体はまだ運転を覚えていた。
ギアをローに入れてゆっくりと確かめるように発信した
。いつエンストするかわからない。
最初に見つけたガソリンスタンドでとりあえずバッテリーを変えた。
ガソリンを満タンにして道路地図を買った。

私は、運転に慣れるために高速を使わなかった。

今日は、ポカポカと暖かくウインドウを開けて風を直接肌に感じながら走った。
環七を走り甲州街道を新宿方面に右折した。
そして新宿の駐車場に向かった。
200台は入るであろう結構大きなスペースを有していた。
C-8は一番出口に近い場所にあった。
奥だと死角になってしまう。
この死角は犯人にとっては逆に都合が悪かったのだろう。
警察の動きが見えた方がいいのだ。
このスペースにこだわるとすればかなり前から狙っていたに違いない。
便利な出口に近いということはそれだけ早めにうまってしまうからだ。
しかし、出口近くには監視カメラが備えてあったのだが、田口の話ではつや消しスプレーを吹いた後があったそうだ。
ぼかした幻想的な雰囲気を出すために写真撮影で使うものなのだそうだ。
つまりガムテープを貼ったり、真っ黒いスプレーを吹きかけると早めに気づかれてしまうが、つや消しだと軽く吹き付けるだけでいい。
少しぼやけるだけなのですぐに係員が駆けつけることもなく、また映った犯人の映像はぼけていて判別が不可能ということだ。
今ちょうどC-8から車が出て行った。

私は、甲州街道に戻り初台から首都高に入った。
まだ、少し車線変更に戸惑いがあったし、できるだけ事件当日に忠実に走りたかったので左の斜線をゆっくりと走った。
それでも後ろの車が遅いといってクラクションを鳴らしてくる。
これでは、警察も尾行はむずかしかったはずだ。
高井戸を過ぎてしばらくすると料金所がある。
そこから深大寺のバス停まではほんの3分ほど。
陸橋が立て続けに7本かかっている。
陸橋にはそれぞれ名前が付けられていた。
蛇久保、原山、北山、絵堂、深大寺上野原、深大寺池ノ谷、そして深大寺池ノ上。
それがバッグを吊り上げたという7本目の陸橋である。
バス停には誰もいなかった。
私は、そこで車を降りて橋の上を見上げた。

調布の出口はそこからさらに3分ほどかかった。
ふたたび甲州街道に入りこんどは逆に新宿の方に向けて走り先ほどのバス停の陸橋の上で車を停めた。

周りの人通りは少なかったがこの時間車は結構多かった。

下をのぞいてみた。
6メートルほどのロープがあれば事足りるように思われた。
多分、犯人は先回りしてここからトランシーバーで絵里子に指示を送っていたに違いない。
反対側からのろのろ走ってくる車のヘッドライトを見ていれば特定できるし、警察車両が尾行していないこともわかるからだ。
一月の終わりと言えば5時を過ぎるともうかなり薄暗かったはずだ。
ほとんど誰も気づかなかっただろう。

私は、陸橋を渡り左に曲がった100メートルほどのところにあるコンビニエンスストアーによって缶コーヒーを買った。

青山のマンションに戻ったのは夜の9時をちょうど回ったところだった。
のりこはすでに帰ってきていた。

のりこが可南子に聞こえないように口を近づけてそっと言った。
 

「後で話してあげるね。」
 

それを見ていた可南子が言った。
 

「のりこ、ごんべぇさんには言えてママには言えない話?」

「その、と・お.り・・・ふふふ」

「ごんべぇさんに会ってからのりこは本当に明るくなったわ。いっそのことごんべぇさんのお嫁さんにしてもらわなくっちゃね。」

「ママったら、知らない!」
 

可南子がいたずらっぽくウインクした。

私のために遅くなった夕食の後に、のりこが部屋にやってきた。
 

「マモル君ね、とってもかわいかった。どちらかっていうと絵里子さん似かな? 最初はちょっと人見知りしたけどすぐになれてくれたわ。」

「絵里子さんにも会ったのかい?」

「もちろん。彼女がマンション近くのコーヒーショップに連れてきてくれたの。でも、今でもマスコミがあとを付け回すんだって。だから、これからもそう簡単には会えないけど・・・こんどね、ディズニーランドに一緒に行く約束してきたの。だから、ごんべぇさんもそのときは付き合ってね。」

「あぁ、いいよ。」

今日の出来事を楽しそうに話すのりこの目は輝いていた。
これが、自らの命を絶とうとしていたのりこなんだろうか・・・
 

「絵里子さんは、不自由していなかったかい?」

「そうね、かなりいやがらせを受けてるわ。マモル君も幼稚園に行っていないみたい。私・・・こんどの犯人、許せない。マモル君や絵里子さんにはなんの罪もないんだもの・・・悪いのはパパなんだから・・・パパの罪は私の罪として受けてゆくわ・・・でも、マモル君は・・・関係ないじゃない!」
 

私は、のりこに何も言ってやれなかった。しかし、私も決してうやむやにはしない、私のこの手で必ず挙げてやる。正義感ぶっているこの犯人を私も許せなかった。
 

「それから・・・近頃ママの様子が変なの。」

「どうした?」

「時々ふさぎこんでいて何か悩んでいるみたいで心配なの。」

「きっと疲れているんだよ・・・かわいそうに・・・」
 

わたしは翌日、いつものジョギングをこなし、いつも通り朝風呂に入り、いつものトマトジュースを飲み干して10時になるのを待った。


  3月9日
 

 この頃の私は、朝必ず30分ほどのジョギングで汗を流すことにしていた。
30分と言っても汗はたっぷりと出た。

のりこに見立ててもらったグレーのスエット、そして3本のラインの入ったジョギングシューズをはいて六本木の朝を走った。
白い息がうしろに流れてゆく。
体はとても軽かった。

狸穴坂を下ると左にホテルがある。
けだるい顔をした男女が二人出てきた。
女は陶酔したように男にもたれかかっている。
のりこによると都内でも有名なSM専門のホテルということだ。
角を右に曲がってしばらく走ると左にスエーデンセンターが見える。
そこを斜め右に一気に駆け上がりアマンドの前に信号待ちをした。
女や男をものにできずに夜を明かした若者やサラリーマン達が地下鉄の入り口に吸い込まれてゆく。
それを横目で見ながら横断歩道を渡った。
防衛庁を左に折れて坂を下る。
本当は乃木坂を過ぎて青山の方まで遠出したいのだがジョギングは30分と決めているので私は決して無理はしない。
帰ってくると、腕立て100回、腹筋100回とスクワット10回を10セットこなす。
そして私は朝風呂に入るのが好きだった。
記憶を失う前の私もきっと好きだったに違いない。
風呂から出ると必ずのりこがトマトジュースを用意してくれた。
たっぷりとレモンを搾り込んで一気に飲み干した。

麻生麻由美の電話番号を104で調べた。
留守電にここの電話番号を吹き込み、今日は3人のアマチュア無線家に会うことにした。

善山俊樹の家は世田谷の若林にあった。
自宅の庭にテレビ塔を小さくしたようなアンテナがそびえ立っていた。
善山本人は、痩せていかにも神経質そうでつっけんどんな男だった。
これがのりこの言う“オタク”なのかもしれない。

私は、TOKIO CITY NEWS記者として振る舞うことにした。
 

「君が例の無線を傍受した時のことを詳しく聞きたいんだけど・・・」
 

手帳を取り出して新聞記者を演じた。
 

「ま、本当は5.00で各局待機するのがルールなんだけどさ・・・」
 

善山は人の目を見て話さない。
 

「それで・・・?」

「5.62は無線仲間との呼び出しチャンネルなんだ。」
 

いちいち合いの手を入れないと話さない。
リズム感のない男だ。
 

「うんうんそれで・・・?」
 

こちらでリズムを作ってやることにした。
大サービスだ。
 

「あの日もいつものように仲間からの連絡を待ってたところだったんだ・・・」
 

私は深呼吸して一度自分の靴を見た。
これものりこが見立てたデザートブーツだ。
 

「うんうんそれで・・・?」

「そこにいきなりコールサインを使わない一方的な声をメリット5で受信したんで・・・」

「メリット5って?」
 

今度は話の腰を折られたので不機嫌な顔をしている。
 

「うんうんそれで?」

「それで、てっきりアンカバーだと思ったんだ・・・つまりアンカバーっていうのは無免許ってことなんだけど、だからクレームをつけたってわけ・・・こちらはJP1LAL・・・ジュリエット・パパワン・リマ・アルファ・リマ・・・5ポイント62ただいま使用中!ってね。そしたらそいつがこのまましばらく使わせくれって言うんだ。」

「どんな声だった?」

「男・・・少し落ち着きがなかった。」
 

もう一度聞いた。
 

「どんな声だった?」

「・・・ふつう。」
 

ボキャブラリーのない男だ。
 

「ふつうって・」

「ふつうって、ふつうだよ・・・あんたみたいに特徴のない声。」
 

特徴がないってことも特徴だって言ってやりたかったが思いとどまった。
 

「相手は・・・?」

「一方的にしゃべってた。」
 

今度は少しパターンを変えてみよう。
 

「ふむふむ・・・」

「たぶんモービル(車での移動局)だったんだと思うけど2〜3分で聞こえなくなったよ。」
 

疲れた。
後の二人もおおよそ同じような話でこれ以上の成果は期待できそうもなかった。
ただ、犯人が使っていた送信側のトランシーバーも、たぶんカローラに積まれていたものと同じTR2500程度のものだろうということ、つまり2.5Wの出力しかないのでせいぜい4〜5キロしか電波は飛ばないだろうということだった。

世間はどうか知らないが私は“オタク”は嫌いだ。
アマチュア無線なんてやっているやつはもっと嫌いだ。

私はむしろ近藤浩に興味があった。
近くの電話ボックスから田口に電話をかけた。
 

「もしもし高木です。今例の3人に会ってきたんだけど・・・特にこれといって興味ある話は聞けなかった。ただ、今日は後一人近藤にも会っておこうと思っているんだ。彼の勤め先を教えてくれないか?」
 

近藤は、新宿の証券会社に勤めていた。
そしていきなりけんか腰だった。
 

「いいかげんに絵里子のことは放っておいてやってくれよ!」

「いや、僕が興味を持っているのは・・・キミなんだけどな・・・さぞかし江渕のことは怨んでいたんだろうね?」

「江渕・・・?あいつは自分のことしか考えていない最低な奴だよ。たかが1億渋りやがって・・・」
 

吐き捨てるように言った。
 

「そうか・・・やっぱり渋ったか・・・で、どうやって出させたんだ?」

「それは・・・絵里子のこと世間にばらすって言ったんだよ。」

「でも、バレたのはどうして?」

「アウトフォーカスに出たからさ。」

「キミがバラしたんじゃないのか?」

「あれは、オレじゃない。だってそうだろう?オレは絵里子を傷つけるつもりじゃなかったんだから・・・」

「今でも絵里子と結婚を考えているのか?」

「そんなことあんたに関係ないだろ。悪いけど忙しいんだ。帰ってくれ。」
 

私は、じっと考えていた。

確かに江渕のことは憎んでいても絵里子を傷つけたいとは思わないだろう。
それは、近藤だけじゃない。
弟の修もそうだ。
しかし、江渕の名前が公表されることが予想外だったとしたら・・・?
絵里子のことをエサにして目的がはじめから江渕の1億だったとしたら・・・?
あながちあり得ないことではない。
 

「その金ぴかの時計、なんて言うんだ?」

「・・・オーディマピゲ」

「ふーん・・・趣味が悪いな。」
 

近藤は目を丸くして鼻の穴を一杯に膨らましていた。

マンションに戻ったのは、夕方の5時を過ぎていた。

のりこの機嫌がなぜか悪かった。
 

「麻生さんて・・・だあれ?」

「麻生さん・・・誰だろう・・・男の人?」

「とぼけちゃって・・・ここに電話くださいって・・・6時まで会社にいるからって。」
 

のりこの視線が痛かったが無視した。

脱ぎかけていたジャケットに再び袖を通してとりあえずマンションを後にした。

麻生麻由美とは青山のクリスというバーで待ち合わせた。
約束の7時を5分過ぎていた。
中は全体的に少し暗かったが照明が効果的に雰囲気を盛り上げていた。
あたりを見回すと30前後のいかにも都会的な女性がこちらに手を上げた。

手がきれいだった。
マニュキアは透明でさりげなく化粧も薄く自然だったが着ているスーツは大人の女を感じさせた。
 

「私も今きたところ・・・えっと、私はドライマティーニをお願い・・・あなたは?」

「じゃ僕は・・・ギムレット。フレッシュライムをたっぷりと搾ってくれ。ジンはタンカレーで・・・」

「ギムレット? あなたが?・・・めずらしいわね。」

「ちょっとフィリップ・マーローを気取ってみたくってね。ところでさ・・・君と僕の関係を教えてくれないか?」
 

私はテーブルに映った彼女の反応を見ていた。
 

「ね・・・それ冗談でしょ?」

「ごめん・・・冗談じゃないんだ。僕は高木圭吾、32才・・・目黒区柿の木坂在住、TOKIO CITY NEWS政治部記者・・・分っているのはこれだけ。実は2月5日に大島でちょっとした事故に遭ってね。それ以来記憶喪失なんだ。」

「事故って?大丈夫なの?」
 

彼女の場合も驚きは他のみんなと同じだった。
私があまりにも素っ気なく言ったので嘘かもしれないとある部分では疑っているようだったが・・・
 

「そういうことって、本当にあるのね・・・でも、それなら確かにつじつまが合うわ。」
 

ひとりで納得したように一度頷いてからやにわに私の方を振り返った。
 

「だってあなたはもう何ヶ月も私に会うことを拒んでいたはずなのに、こうして会いに来てくれた・・・変よね。それに今までのあなたなら、1時間は私を待たせたわ。」

「どうして僕は君を拒んでいたんだろう?」

「それは、こっちが聞きたいわ。あの頃のあなたは何かに取り憑かれたようだった。いらいらしてて近づけなかった。毎日毎日江渕を追いかけて、私のこと見向きもしなくなって、電話をかけても出てくれなくなった・・・」
 

彼女は片手で長い髪をかきあげた。
 

「・・・でも、今のあなたはとても懐かしい感じがする。」
 

本当に懐かしそうだった。
 

「取り憑かれていたものから解放されたみたいに・・・穏やかな顔つきをしている・・・」

「そう・・・今はなんにも取り憑かれていない・・・君には随分と迷惑をかけたようだね・・・どうもこのまま記憶が戻らない方がいいみたいだ・・・」

「このままでも、あなたが私のところに戻らないのは同じことだわ。」
 

麻由美は、ドライマティーニを一気に飲み干しバーテンにお代りを告げた。
 

「あなたは、江渕を最後まで追い切れなかった。あんなに荒れているあなたを見ているのはとてもつらかったわ。私ではどうすることもできなかったの・・・そうだ・・・じゃ、まだ西田さんにも会っていないのね?」

「西田・・・?」

「アウトフォーカスの記者・・・あなたの高校時代からの親友よ。とても心配していたわ・・・えっと・・・これが連絡先。」

「アウトフォーカス・・・?」
 

記憶を失う前の私の生活はとても刺激に満ちている。
高木は非常に興味のある男だ。
 

「ありがとう、早速会ってみるよ。ところで・・・君のこともっと知りたいな。」
 

私は、少しときめいていた。
彼女と会ったときと、きっと同じように・・・
 

「ふふ、タイムマシンで5年前に戻ったみたい。私は、麻生麻由美・・・もう30・・・外資系の広告代理店クレイ社でクリエイティブディレクターをしているの。そして高木圭吾の元・・・恋人。」

「へぇ・・・広告代理店か。華やかな職場じゃないか・・・で、どんなことをしているんだい?」

「あらあら、私のことなんて全然気にも止めなかった人が・・・ま、いいわ。プリティギンブル社のラバーズというシャンプーを主に担当しているの。でも、世間が思っているほど華やかじゃないのよ・・・というか・・・むしろ地味・・・」
 

麻由美は、マティーニをグルグルまわしていた。
 

「コンセプトテストの繰り返し・・・コンスーマーのニーズと商品アイデアの接点を探ってインサイトで結びつける・・・簡単なことじゃないわ。早い話が“石橋をたたいて、粉々にしてちゃんと整地してから渡る”って感じかな・・・なのに会社は賞を取ることを求める・・・消費者の心をつかまないで審査員の心をつかめって言うの・・・矛盾しているって思わない?」

「はは・・・けっこう難しい言葉が飛び交う職場なんだね・・・」

「あ、ごめんなさい・・・私ったらいつのまにか愚痴っていたのね・・・なんだか、はずかしい。」

「いや、まったく未知の世界の話だから面白いよ。」
 

話ははずんだ。
彼女は生き生きとしていた。
おたがいにときめいていた頃のはじめてのデートのこと、はじめてのキスのこと・・・5杯目のギムレットを飲み干したときに私たちは店を後にした。

私たちは、彼女のマンションに向かった。
二人とも気持ちよく酔っていた。
彼女の部屋は15階建ての15階にある20畳ほどのワンルーム、フローリングでダブルベッドのマットだけでベッドメーキングしてあった。
すべてが床置きになっている。
大型のテレビ、ミニコンポ・・・丸いライト・・・ただそれだけ・・・家具は何もない。
ベランダに出ると東京湾が見えた。
2脚の椅子が並んで海の方を向いていた。
僕たちはそこに座り、東京湾を往来する船を眺めながらシャンパンをあけた。
それはとても口当たりが良く飲みやすかった。
僕は、ピンク色のラベルに書いてある名前が読めなかった。
 

「これおいしい・・・」
 

読めないことがわかったのか、彼女が言った。
 

「ドンペリって言うの・・・」

「またバーに行くことがあったら今度はギムレットじゃなくこれにしよう・・・」

「ふふ・・・私が一緒のときだけにしておいたほうがいいよ。」

「えっ?」

「プリティギンブル社にかんぱーい!」
 

二人とも現実とは違う心地よい夢の中にいた。

彼女の腕が私の首にまとわりついてきた。
唇が私の唇をむさぼり、首を這い・・・しかし残念ながらそれ以上のことは覚えていない。

 



  3月8日
 

「ゴンベェさん、田口です・・・今日、港署に赴任しました。」
 

田口刑事と会うのはおよそ1ヶ月ぶりだった。
のりこの精一杯のごちそうが田口を迎えた。
 

「背広姿の田口さんもなかなか素敵よ。」

「おいおい、のりこちゃん・・・」

「ははは、照れてる田口さんもまたまたステキ。」

「ゴンベェさん、なんとか言ってくださいよ。」
 

田口刑事のウエルカムパーティはとても盛り上がり、のりこも可南子も本当に楽しんでいた。
 

「ところで、田口さんはずっと大島で育ったの?」
 

デザートのザッハトルテを配りながらのりこが尋ねた。
 

「東京の向島で生まれたんだ。親父がやっぱり警察官で、僕が小学校の5年生の時に大島に転勤になってそれ以来・・・ま、だから大島で育ったようなものだね。」

「お父様は、今でも健在?」

「いや、5年前に・・・。正義感が強くて、バカ正直で不器用な親父だったけど・・・好きだった・・・親父の口癖はね“憎いのは犯人じゃない、何がそうさせたのかそれを憎め、罪を憎め、心から悪いやつなんかいない、人間として扱え・・・”」

「すばらしいお父さんじゃないですか・・・テーブルの上にあったお金を盗んだやつが悪いのか・・・無造作にテーブルに現金を置いてそんな気持ちにさせたことが悪いのか・・・考えさせられるね。」
 

田口が、警察官を継いだのもとても良く分る気がした。
 

「はい、だから犯人の検挙率は低いんです。ほとんど自首させていましたから・・・だから万年平巡査でした。」

「で、新米刑事の担当は?」
 

何の意味もなく聞いたつもりだった。
 

「あ、いや・・・まだそのう・・・新任でありまして・・・研修やなにかと忙しく・・・あっ、もうこんな時間・・・そろそろ失礼しないと・・・」

「田口さん、まだいいじゃない。」

「いやほんと、もうおいとましないと・・・のりこちゃんの手料理とってもおいしかった。また、ごちそうになりにきてもいいかな?」

「もちろんよ。」
 

田口の仕草に不自然さを感じた私は、駅まで送ることにした。

道すがらそれとなく聞いてみた。
 

「守秘義務があるので、詳しくは言えないんですが・・・例の1億円の誘拐事件が私の担当なんです。」

「えっ君も?」

「・・・君もって・・・?」

「いや・・・つまり僕もってこと・・・僕の場合は正確に言うと、江渕の汚職事件の方・・・TOKIO CITY NEWSで江渕を追っていたらしいんだ。」

「おどろいたなぁ・・・そうなんですか・・・」

たぶんふたりとものりこと可南子のことを考えていた。

「田口さん、折り入って頼みがあるんだけど・・・」

「なんでしょうか・・・?」

「迷惑でなければ、個人的に君の手伝いをさせてもらえないだろうか?」

「それはまたどうして・・・?」

「僕がいつか高木圭吾に戻ったとき、TOKIO CITY NEWS記者としてまた江渕を追いかけることになると思うんだ。江渕を追いかければ追いかけるほど、のりこと可南子を苦しめることになりそうで・・・それよりも誘拐事件を早く片付けて、江渕母娘を世間の好奇の目から解放させてやりたいと思うんだ。」

「よく分ります。僕もそうですから・・・いいでしょう。でも、くれぐれもこのことは内密にお願いします。あっそうそう、これを渡すの忘れていました。」
 

私の札入れと免許証、そしてキーホルダーにTOKIO CITY NEWSの記者手帳だった。

札入れには1万円札が10枚と千円札が6枚、アメックスのゴールドカードほかクレジットカードと銀行のキャッシュカードが数枚、キーホルダーには全部で5つの鍵がぶら下がっており、その内の一つは車の鍵らしかった。
そして手帳には几帳面な文字でぎっしりとなにやら書き込んであった。

田口と私は神谷町の方へ向かわずに六本木に向かって歩いていた。
そして交差点手前で見つけたケネディハウスというライブハウスに入った。
とても騒々しい店だったがこちらにはかえって好都合だった。
 

「僕は、ギムレットを・・・必ずフレッシュライムでジンはタンカレーで。」
 

僕は田口と同じものにした。
なんでもフィリップマーローを気取っているらしいのだが、なんのことか僕には分らなかった。
 

「さっそくだけど事件のあらましを教えてくれないか。」
 

こんなこと大声で話すことではなかったが、音がうるさくて耳を近づけても聞こえないほどだった。
 

「事件が起きたのは、1月31日の日曜のことでした。まず、江渕の愛人である林絵里子から110番が入りました。もちろん、その時は絵里子が江渕の愛人だったなんて知る由もありません。警察はお決まり通りに逆探知を試み一方では報道管制を敷き万全を期して臨んだのです。そしてその犯人からの要求額が1億円。警察は驚きました。どうみても林絵里子に1億円は不釣り合いです。」

「そこで江渕譲の登場か・・・」

「そうです。絵里子は江渕に頼るしかなかったのです。」

「ということは・・・犯人は、江渕が林絵里子の愛人であったことを知っていたことになる。」

「憶測ですが、そうだと思います・・・しかし、それを知っていたのはごく一部のものに限られています。世間に二人の関係が知れ渡ったのは事件発生から9日後・・・2月9日発売のアウトフォーカスによる暴露記事でした。これは大スキャンダルでした。効果覿面(てきめん)というやつです。世間はあろうことか犯人の方に拍手を送ったのですから。」
 

確かに世間からすれば小気味のいい出来事だ。
江渕事件はどうせうやむやになる。
犯人は現代版のネズミ小僧だ。
 

「それで、金の受け渡し方法は?」

「これがまた見事なんです。2月2日3度目の電話で犯人が指定してきたのは新宿野村ビル横の都営駐車場でした。そろそろ暗くなりかけていたのですがまだまだ人通りも多く、周りからの見晴らしもよくて警察は一切手を出せない状況だったようです。番号が不揃いの1万円札の束が100個入ったボストンバッグを持った絵里子は、Aの15番の駐車スペースに行きました。そこで予期せぬことが起こったのです。絵里子はそこで紙袋を拾いそのまま出口近くの車に乗り込み走り去ってしまったのです。」

「何が起ったのです?」

「指定された場所には紙袋が置いてありました。その中には車のキーとメッセージが入っていました。そしてこう書かれてあったのです。“出口近くのCの8番の白いカローラに乗れ。警察に知らせると子供の命はない”・・・と」

「しかし・・・」

「そう、それだけでは金は受け取れない・・・しかし、犯人はまんまと1億円をせしめてしまいました。絵里子にはトランシーバーで直接指示を出していたのです。カローラの中には・・・もちろん盗難車ですが、トランシーバーが置かれていたんです。」
 

手に汗がにじんできた。
 

「車の中にはさらに千円札が2枚と5百円硬貨が2枚そして百円硬貨が1枚置かれていました。これはパーキング代と高速代に使われました。そして、トランシーバーから一方的に犯人からの指示が聞こえてきました。あわてるな・・・ゆっくり走れ・・・右に曲がれ・・・高速に乗れ・・・30キロを保て・・・60キロにスピードを上げろ・・・と、いうふうに。」

「30キロ・・・?」

「警察が追ってこないことを確かめるためにです。つまり高速を30キロなどという低速で尾行すれば犯人に知られてしまいます。警察が関与していることが分ればその時点でこの計画を中止し子供は危険にさらされるでしょう。しかしその必要はありませんでした。とっくに見失っていましたから。そして中央自動車道に入った絵里子は調布手前深大寺の高速バス停で指示通り車を停め陸橋からつり下げられたロープにボストンバッグを引っ掛けたという訳です。絵里子はその間、警察に知らせることができませんでした。いや、知らせるつもりはなかったのかもしれません。子供は無事に戻ったのですから。」

「どうやって戻ったのです?」

「バス停のイスに居場所の書いたメモが置かれていました。」

「その後の検問は?」

「そう・・・検問は直ちに実施されました。しかし、検問にはまったくひっかからなかったのです。これは未だに謎です。絵里子がバッグを手放したのが19時30分頃、あの一帯で検問を行ったのが遅くとも15分後ですから・・・犯人が車で移動していたのは確実なんですが・・・」
 

私は、大きくため息をついた。確かに見事だった。
 

「これは、単独犯だろうか?」

「その辺は何とも・・・」

「しかし、犯人は結構手がかりを残しているように思えるけど・・・例えば、トランシーバーとか・・・紙袋・・・メモ・・・そして当のまもるくん。」

「はい、トランシーバーは、犯人からバッグに一緒に入れるよう指示があって現物は手元に残っていませんが、その後の調べでケンウッドのTR2500らしいということは分っています。周波数は144MHZ帯で通常“いっちょんちょん”と呼ばれています。この周波数を使うためには国家試験にパスしなければなりませんが、電話級のアマチュア無線技師の資格でよく、これは小学生でも持っていますから、こちらから当たるというのは至難の業です。それに免許を持っていないと買えないという訳ではありませんから、そうなるともうお手上げです。しかし、その後の通報で使用チャンネルは分っています。えーっと・・・あ、これだ145.62MHZです。」

「えっ他人が聞いていた?」

「そうなんです。アマチュア無線は周波数さえ合っていれば誰でも聞くことができるんです。車は移動していましたからたまたま他の人がそのチャンネルを使っているところへ飛び込んで行ったということもあり得ますし、特に東京は込み合っていましてみんなが入り乱れて交信しているというのが実情なんです。」

「それで警察の捜査はどこまで進んでいるんだろう?」

「それが思うように進んでいません。まず絵里子と江渕の関係を知っていた人物は今のところ分っているのは3人です。まず、絵里子の母親と弟の修です。修は工業高校を卒業した後、2年前から稲城市の自動車工場で働いていて寝たきりの母親の面倒をみています。事件当日のアリバイは白でした。そしてもうひとり、絵里子と高校時代につき合っていた近藤浩です。私生児を産んだ絵里子に同情して結婚を申し込んでいたそうです。彼のアリバイに関してはまだ確認がとれていません。そしてカローラは盗難車・・・駐車場は無人でパーキングチケットを発行するタイプのものでしたので目撃者は無し。メモもありきたりのワープロで打たれたものでした。」

「さて困ったな・・・まず無線を傍受した人たちに会ってみたいんだけど。」

「そうですね、明日彼等のリストを用意しておきます。」
 

田口と極秘の関係を結んで、別れたのは11時を過ぎていた。
マンションに戻り上着をぬごうとしたその時に、柿の木坂のマンションで見つけた封書がそのままだったことに気がついた。
世田谷区若林・・・麻生麻由美
 

“この頃のあなたは、私の手の届かないところに行ってしまったみたい。それでも私はあきらめきれないの・・・取り憑かれたように無茶をするあなたが心配です”
 

それはきれいな文字だったが神経質で感情的だった。

おかげで明日からは忙しくなりそうだった。

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