読むと旅行したくなる純愛小説

恋に不器用な男の書いた純愛ストーリー


  3月4日
 

 私は、10時にTOKIO CITY NEWSの玄関に着いた。
1階受付で政治部のある階を聞いた時その受付嬢は一瞬不思議そうな顔をしたがすぐもとのすました顔に戻り7階だと教えてくれた。
政治部は、エレベーターを下りて右に曲がった突き当たりにあった。
私は一度ゆっくり深呼吸してドアを押し開けた。

一瞬ざわめきが止まった。

モクモクとした煙の中の15人ほどの人たちが私の顔を宇宙人でも見るかのように見ていた。
 

「あの、私は高木と申しますが・・・」
 

確かにこれは変だった。
そして静寂が再びざわめきに変わった時
 

「高木!」
 

窓際に座っていた男が立ち上がって叫んだ。

その男の机の上には、“編集長 奥村”というネームプレートが置かれていた。

私はその男のところに歩み寄った。

無精髭を生やし頭はぼさぼさで灰皿には吸い殻が山のようになっている。
そして新たに1本タバコに火をつけて言った。
 

「昨日、警察から確認の電話があって大体の話は聞いた。しかし、災難だったな・・・」
 

そこでその男は、私が記憶喪失だということに気がついた。
 

「あ、俺は奥村。お前の上司だ。」

「いろいろとご迷惑をおかけしました。」

「いや、いいんだ・・・しかし、記憶喪失ということは・・・その・・・自分のこと、どこまで覚えているんだ。」

「はっきり言って、何もおぼえていないと言った方がいいでしょう。」
 

何か人ごとのようでおかしかったが、今の私にとって高木圭吾は他人だった。
 

「ま、そこに座れ。」
 

編集長の机の前に置かれた来客用のイスに腰を下ろした。
 

「お前は一月の末だったと思うが、2週間の休暇を取ると言ってそのままいなくなったんだ。あの頃のお前は結構落ち込んでいたから・・・たまには骨休めもいいだろうと思って許可したんだが・・・」

「それまで、僕はここでなにをしていたんでしょうか・・・?」

「ここでは江渕の汚職事件を担当していた。」

「江渕の・・・?」
 

ひょっとして、大島ではのりこを追っていたのだろうか?
 

「そうだ、結構いいところまで追いつめていたんだ。事件そのものがお前のスクープだったし・・・オレとしては、一刻も早く現場に復帰してほしいんだが・・・しかし、記憶喪失じゃあな・・・仕方がないな。それに今じゃ世間は、例の誘拐事件の方が興味あるみたいだし・・・」

「すみません。とにかく今の私は職場復帰よりもまず社会復帰をしなければならない状況です。」

「そうだな・・・」
 

力なくそう言った奥村は、再び思いついたように・・・
 

「よし、わかった。とにかくしばらく休んだ方がいい。会社には休職ということで俺から報告しておくから、診断書だけ用意しておいてくれ。」

「感謝します・・・それともうひとつ、社内で私と一番親しかった人物を教えていただきたいのですが・・・」

「あぁ、それならカメラマンの松永だろう。今日はもう取材に出かけてしまったが、帰ったら電話させよう。」
 

私は、連絡先の電話番号を教え丁寧に頭を下げた。

 

 会社を出た後、私はのりこと落ち合って一緒に柿の木坂に向かった。
中目黒から東横線に乗り換え都立大学に着くまでの間、のりことはほとんど言葉を交わさなかった。

私は、窓を流れる景色をじっと見ていた。通勤途中に何度も見ているはずだった。

都立大学駅に着くと駅北口を大学の方へ・・・目黒通りを渡った。
学生らしき若者とはひとりも会わなかった。
右手に日本蕎麦屋があった。
のりこによるとこの辺では結構有名な蕎麦屋だそうで、ひょっとして私も何度か来ているに違いないと感じた。
 

「ゴンベェさん・・・結婚しているのかなぁ・・・?」
 

のりこが唐突に言った。
 

「えっ」

「もし、奥さんがいたらびっくりするだろうね・・・急に現れて。」

「そうか・・・そんなこと考えても見なかったな・・・もし、いたらどうしよう・・・」
 

駒沢通りの柿の木坂交番を過ぎると白いマンションが見えて来た。
管理棟を中心に両脇に2棟建っている。

管理棟の管理室で事情を話して鍵を借りた。

管理人が私のことを覚えていてくれたのでサインをするだけで意外に簡単に借りることができた。

柿の木坂スカイハイツフォレストコートの6階に部屋はあった。

はたしてどんな高木圭吾に会えるのだろうか。
少しドキドキしてきた。

新聞受けには、全く何も入っていなかった。
ドアの右横にメータボックスがあった。
開けてみると二つ折りにされた新聞がきちんと積まれていた。
 

「結構しっかりとした管理人さんね。」
 

と、のりこが言った。

インターフォンを押したが返事はない。
のりこの顔を見た。

鍵を差し込んだ。

そして、ゆっくりとドアを手前に引いた。

カーテンの隙間から漏れる一筋の光線が部屋の一部分を紹介してくれた。

意外にきれいだった。
 

「高木さんて、几帳面な人みたいね。」

「そうみたいだね・・・」
 

リビングは10畳ほどの広さで床置きの大型テレビとミニコンポを中心に全体的には黒でコーディネートされていた。
 

「これ、コードレスフォンにしては少し変ね。」
 

確かに電話のようだったが・・・
 

「ほら、見て!CDがこんなにたくさん。」

「どんなジャンルが好みなんだろう?」

「そうね・・・」
 

そしてプーっと吹き出した。
 

「ごめんなさい・・・だって節操がないんだもん。モーツアルトがあると思えば、オフコースがあるし・・・ほら、見てこれ!」

「由紀さおり・・・誰?」

「歌謡歌手であり・・・童謡歌手・・・ハハハ」

「そんなに笑っちゃかわいそうだよ・・・」

「だって・・・だって・・・」
 

腹を抱えて笑っている。
息が苦しそうだ。
 

「だって・・・何?」

「だって、ゴンベェさんのことだよ。」

「あ、そうか・・・はは。」
 

リビングはカウンターでキッチンと繋がっていた。
 

「お茶をいれようか・・・インスタントだけどコーヒーがあるわ。」

「そうだね。」
 

リビングの手前のドアを開けると、そこは寝室だった。

ダブルベッドの他は、ぎっしりと本の詰まった本棚が3方の壁を埋め尽くしていた。
本もまた節操がなかった。
科学雑誌、映画のパンフレット、インテリア雑誌、それとありとあらゆる単行本・・・

アルバムは、本棚の右下隅にあった。
そこには、忘れてしまった私が一杯詰まっていた。
何か懐かしかった。
まだ小さな私を抱いた母親の顔をかすかに覚えている。
何かが・・・何かこの喉の当たりに引っかかっているものが・・・もう少しで思い出せそうな気がしていた。
 

「あっ、ダブルベッド!」
 

手にコーヒーを持ったのりこがいたずらっぽい顔をして立っていた。
 

「そ、そういえばそうだね・・・広々としていて心地良さそうだよね・・・」

「何赤くなってんの?」

「ほら、見てごらんこのアルバムを・・・高木って男・・・まるで女っ気がない・・・」

「わかった、わかった・・・さ、コーヒー」

「ったく、大人をからかって・・・」

「私、ゴンベェさんが思っているよりずっと大人なんだからね。」
 

プイッとふくれたのりこは、まだまだ子供だったが確かに初めてあった頃よりずいぶんと大人びてきていた。

しばらくコーヒーブレイクした私たちが次にしたことは、郵便受けにたまっていた郵便の整理だった。
ほとんどがダイレクトメールとクレジット会社からの請求書だったが、一通だけ女性からの手紙を見つけた。

麻生麻由美・・・のりこに気づかれないようにそっと上着の内ポケットにしまった。
 

「そろそろ帰ろうか・・・」
 

当面の着替えをバッグに詰め込んで港区のマンションに帰ってきたのは4時を過ぎていた。
 

「ゴンベェさん、3時頃だったかしら・・・松永さんという方からお電話があって折り返し連絡をくださいってことでしたわよ。」
 

可南子から、猫のイラストの入ったメモ用紙を受け取った。

 

私たちは、TOKIO CITY NEWS近くの乃木坂茶館で落ち合った。
 

「いやぁ高木さん、本当に心配していたんですよ・・・あ、そうか僕松永英二と言います。つまり、高木さんとはずっとコンビを組んでいたんです・・・ほら、江渕事件・・・二人で追っていた・・・覚えていませんか・・・?」
 

松永は、同僚との奇妙な会話に戸惑っている様子だった。
 

「江渕事件を追っていたんだね・・・?」

「はい、あれはそもそも高木さんのスクープでしたから・・・でも所詮この手の政治がらみの事件はうやむやになってしまうんです・・・とにかく政治家の先生方も狸ですから、結局みんな秘書のせいになってしまって・・・」

「つまり、この事件は終わったってこと?」

「いえ、必ずしもそういうことではありません。私もそうですが、高木さんも江渕をとことん追いつめるつもりでいたはずです。・・・ま、こんなことになってざんねんですが・・・でも、待ってますよ、あなたが早く戦列に復帰することを。」
 

松永の目は社交辞令ではなく、本気だった。
 

「ありがとう・・・江渕事件は、僕にとっても自分探しの原点のような気がしているんだ。」

「そうですね、高木さんのためにも逐一報告しますよ。」
 

そのあと高木自身のことをいろいろと聞いた。
だんだんと自分のことが分ってくるに従って高木圭吾に興味を覚えてきた。
今の自分からは到底想像できない実際の高木圭吾に・・・しかしその反面、江渕との関わりがのりこや可南子にどう影響を及ぼすのか気がかりだった。


3月1日
 

のりこのマンションに世話になりはじめてから2週間が過ぎようとしていた。
この2週間の間に、わたしが、わたし自身を見つけることはできなかった。

そして、あの田口巡査から電話があったのは

それからさらに2日が経った3月3日のことだった。
 

「やぁ、ごんべぇさん。私です、田口です。わかりましたよ!」
 

相変わらず元気そのものだった。
 

「あなたは、高木・・・高木圭吾さんです。年齢は32才・・・目黒区柿の木坂に住んでいました。TOKIO CITY NEWS政治部の記者です。」 

TOKIO CITY NEWS・・・そうか、それで・・・しかしどうしてわかったんです?」

「それが、あなたが浜に打ち上げられた時に、東京から来ていたサーファーたちが、あなたの救助を手伝ってくれたのですが・・・実は、そいつらをもう一度調べたんですよ。そしたら持っていたんです・・・その中のひとりが、あの時のどさくさに紛れて、あなたの札入れと免許証、そのほか一切合切を抜き取っていたんです。」

「そうですか・・・たかぎけいご・・・ま、悪くはないですね・・・」

 

いつまでも“名無しのごんべぇ”じゃ困るからな・・・と心の中で呟いた。
 

「どうですか・・・? 何か思い出せそうですか?」

「本当に助かりました。明日さっそく会社の方へ行ってみます。しかし・・・なんてお礼を言ったらいいのかな・・・」

「これが僕の仕事なんですよ。ところで、ゴンベェさん・・・失礼高木さんでしたね・・・実は私、来週から東京勤務なんです。刑事として。」

「すごい! 栄転じゃないですか・・・それはおめでとう・・・そうだ、来週一度連絡をくれませんか・・・のりこもきっと会いたがると思うし・・・お礼も含めてお祝いしましょうよ。」

「ぜひ、お会いしたいです。私もこれから東京で一人暮らしなんて寂しいですからね。」

それは、私も同じだった。田口巡査・・・いや、田口刑事は、私にとって心強い男だった。

 

母親と一緒に買い物に行っていたのりこが帰って来たのは、夕方の6時を過ぎていた。
 

「ごめんね、おなか空いたでしょう? 今作るから待っててね。」
 

可南子とのりこは毎日二人で買い物に出かけた。
今度の事件で二人の親子関係は揺ぎないものとなっていた。
 

「のりこがね、ゴンベェさんにごちそうを作るんだって張り切っていますのよ。

いっそのことお嫁さんにしてもらおうかしら・・・」
 

そう言って、私に軽くウインクした。
 

「ママったら、バカなこと言わないでよ、まったくもう・・・今日はひな祭りなのよ。ただ、みんなで楽しくしたかっただけ。」
 

ムキになっているのりこをからかっている可南子もまた楽しそうだった。
そんな二人を見て言うか言うまいか迷ったのだが・・・
 

「あのさ・・・ちょっと二人とも聞いてくれないか?」
 

不安そうな目が四つ、私の唇の動きを見つめている。
 

「さっきね、田口さんから電話があったんだ。僕のことがわかったって・・・僕は高木圭吾といってTOKIO CITY NEWSの記者なんだって・・・といってもなんだかピンとこないけどね・・・」
 

自分が誰かわかったところで記憶がよみがえった訳ではないのだが・・・
 

「・・・そう、よかったね。」
 

最初に口を開いたのはのりこだった。
 

「それで・・・どうするつもりなの?」

「とにかく、明日会社に行ってみようと思うんだ・・・何か思い出すかもしれないし・・・まずは、それからさ。」

「でも、しばらくはここにいるんでしょ? まだ、ひとりじゃ無理なんだから。」

「ありがとう・・・でもいつまでも迷惑をかける訳にもいかないし・・・」

「私たちは、いつまでいていただいてもかまわないんですよ。かえってそうしていただいたほうが、女所帯にはなにかと心強いし・・・ね、のりこ。」

「そうよ・・・そうして、お願いだから。」

「ありがとう。どちらにしても今すぐどうこうする話じゃないし、とにかく明日、会社に行ってみてからのことだから・・・それから、田口さんが来週東京に来るんだ。これからは刑事として東京勤務だそうだよ。」
 

少し安心したのか、のりこの顔に笑みが戻っていた。
 

「それじゃぁ、なにかお祝いしなくちゃね。」
 

可南子が言った。
 

「そうね、私がごちそう作る。」


  2月17日
 

 わたしが第2の人生をスタートさせてから10日が経っていた。
東京港区にある彼女のマンションは警備が厳しく、オートロックで外部のものがむやみに入れないシステムだ。
部屋は、5つの洋室と20畳ほどのミニバーのついたリビングで、全体で約200平方メートルはあるように思われた。

ここは可南子夫人の持ち物だった。
表札も婦人の旧姓となっている。
江渕家としての本宅は白金にあるらしいのだが、例の事件でここをいわゆる隠れ家として使っていた。
しかし、

江渕譲氏本人は全国8カ所の別荘のうちのどこかに身を隠しているらしい。
わたしにあてがわれた部屋からは眼下に狸穴坂が見えた。
後にアメリカンクラブ、隣にソ連大使館、ロケーションとしては最高の場所だった。

名前のないわたしのことを彼女たちは“ごんべえさん”と呼んでいた。
これは、田口巡査がつけた名前だったが、はっきり言ってあまり気に入らなかった。

「ごんべえさん、ちょっと外に出てみない…」

のりこは、ジーンズにTシャツ、そのうえに皮ジャンをはおっていた。
元気なのりこに手を引っ張られて表に出た。

 

 東京は、やはり初めてではなかった。

しかも、わたしはこの町を覚えている。
ひとつひとつ確認するように歩いた。
飯倉の交差点、露天、ロアビル、アマンド、この道は何度も、何度も歩いている・・・それがいつのことだかは覚えていないが・・・きっと自分を取り戻せる。そう確信した。
 

「ありがとう、のりこ」

「えっ、何が?・・・へんなごんべぇさん。」

「いや、なに・・・少し光が見えたのさ。ところで、のりこ、学校にはまだ戻らないのか。」

「うん、まだそんな勇気ない。」

「そうか、あせることはないさ。」

「なんかごんべえさん。明るいね。」

「のりこは?」

「ふっ切れた、といえばウソになるかな。わたしね、パパのこと大好きだったの。」

「過去形?」

「いや、今でもパパのこと好きでいたい。でも、今いちばん気になっているのは、マモル君のことなの…」

「マモル君て、お父さんの…つまり愛人との間にできたという…」

「でも、わたしの弟…」

「確かに…そうだね」

「わたし、マモル君に会いたいと思っているの。会ってどうなるという訳じゃないけれど。わたしがついているからねって、わたしたちふたりっきりの姉弟なんだからねって言ってあげたいの。」
 

のりこは、目にいっぱい涙をためていた。
私はそっとのりこの肩を抱いた。
のりこの優しさがこぼれないようにだいじに抱いてやりたかった。

わたしたちは、防衛庁を過ぎて乃木坂にさしかかっていた。
TOKIO  CITY  NEWSの前に来た時に、「やあ、ひさしぶり。」と手をふって走り去った車がいた。
 

「えっ、おれ?」
 

のりこと顔を見合わせた。
のりこは“わたしの知り合いじゃない”と言った。
確かにわたしに向けられた声だったのだ。
 

「ちょっと、待ってくれ!」
 

車は交差点を曲がって消えた。

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