読むと旅行したくなる純愛小説

恋に不器用な男の書いた純愛ストーリー


  

 

 「ボナセーロ」

店は、活気があって込み合っていた。
くしゃくしゃに丸めたピンク色のメニューが、テーブルの上に無造作に置かれてある。
ふたりが席に座ると、ウエイターがテーブルのキャンドルに火をつけた。
ゆらゆらと美奈の笑顔が浮かび上がる。
 

「白でいい?」
 

「はい・・・」
 

「わかった・・・じゃぁ、料理は勝手に頼んじゃっていいかな?」
 

美奈が頷いた。

恭平は車だったのでノンアルコールのバクラー、彼女にはシャルドネを頼んだ。

恭平は今までここで頼んでおいしかったと記憶しているいくつかのものをオーダーした。
まず前菜は、牛タンとゴルゴンゾーラを合わせたもの・・・そしてプロシュートとルッコラのピッツァははずせない・・・魚は鱸のバターでソテーしたもの・・・それと、サルティンボッカと・・・4種類のチーズのリゾット・・・少し多いかな?とは思ったが・・・もし、多いようだったらピッツァは持って帰ればいい・・・と、一気にオーダーした。

恭平がオーダーしている間、美奈は、手持ち無沙汰に次から次へと入ってくる客を観察していた。

 

なんとなく話のきっかけがつかめず、恭平も入ってくる客や既に席に着いているそれぞれの人生を覗き見していた。

やがて運ばれてきた飲み物が会話のキューをくれた。

静かにグラスを合わせると美奈が口火を切った。
 

「私、まだハワイって一度も行ったことがないんです。橘さんは、もう何度も行かれてるんですよね?」
 

「もう数えきれない・・・ほとんど仕事だけどね、引退したら住みたいと思ってるんだ・・・」
 

「やっぱり・・・住むとしたら・・・ホノルルとかですか・・・?」
 

「住むとしたら・・・オアフだったらホノルルよりノースの方がいいし・・・マウイだったらハナ。でもやっぱり、カウアイのハナレイがいいかな?」
 

「ハナレイ?・・・」
 

「ハナレイってね、カウアイの北のはずれにある小さな街で、たくさんの虹を見ることができるから虹の生まれる里って言われているんだ。ハワイ諸島ってこんな風に長細く連なっているだろ?その一番西の端にあるのがカウアイ・・・ハワイで最初にできた島・・・今からだいたい5,600万年前にできた島だと言われていて、他の島に比べて雨が多いんだ・・・だから緑が多くてガーデンアイランドと呼ばれてる。とくにハナレイは、一日に1回は必ずシャワーがあるんだよ。それが10分くらい経つと、さっきまでの雨がうそみたいにやんで、真っ青な空が広がったかと思うとさ、七色の虹が、色鮮やかに現れる。現れるというより・・・やっぱり、生まれるって感じかな?・・・虹の麓に行くと、幸せになれるって言うだろ?・・・本当に行けるんじゃないかと思ってしまうほど、虹はすぐそこにくっきり見えるんだ。」
 

なんとなく得意分野だったせいか、恭平は一気にしゃべりまくった。
 

「ほんとですか?・・・それなら私も行ってみたいです・・・ハワイってショッピングするだけの島だって思い込んでいたから・・・幸せになれる里があるなんて、素敵じゃないですかぁ・・・」
 

美奈は、目を輝かせている。
 

「ハワイは、それだけじゃないよ。マウイもいい。『星の降る山』というのがあって・・・ははは、ごめん。これは、今自分で勝手に名前を付けた。ハレアカラ火山って言う・・・ハワイ語で『太陽の家』っていう意味の山・・・富士山でいうと8合目くらいの高さかな・・・『2001年、宇宙の旅』って観たことある?」
 

「はい、観ました。」
 

「あの映画の一部分が撮影されたことや、アポロの月面着陸の時に訓練した場所としても有名な山で・・・俺は5年くらい前に、ご来光を見に登ったことがある。登ると言っても車で行くんだけど、ホテルに頼んでおくと、朝の2時半頃にピクニックバスケットが部屋のドアの外に置いてあってね、それを持って真っ暗な山をひたすら登って行くわけ・・・空は満天の星・・・吸い寄せられるように、星に向かって走ってゆくって感じ。その星の多さに感動していると、流れ星が長い尾をひいてスーッと流れるのが見える・・・それもひとつやふたつじゃないんだ・・・いくつもの星が流れてゆく。まさに星が降ってくるって感じ・・・ストロークが長いから、流れている間にちゃんと願い事が言い終われる・・・虹が幸せにしてくれて、星が願いを叶えてくれるハワイ・・・ロマンチックだよね・・・」
 

「橘さん、私、もう絶対にハワイに行きたい!」
 

「君は若いんだからこれから何度でも行くことができるじゃないか・・・ハレアカラに行く時はできればレンタカーがおすすめ・・・ツアーで行くと自分で運転する訳じゃないから目的地に着くまで星にも気づかずにほとんどの人が寝ちゃうらしい・・・それにバスを降りたら、すごく寒くて、それでトイレに行きたくなる・・・しかも山頂にはトイレが一つしかないから長蛇の列、それで肝心のご来光を見ることも出来ずに、またバスに乗る・・・なんてね・・・太陽に照らし出された自然があらわになるってすごいぞ・・・10数年もかかってやっと花を咲かせるのに、たった一日で枯れてしまうというシルバーソードを見ることができる・・・日本語では銀剣草というんだけど、その辺の雑草に安物の銀のラッカーを塗ったみたいな不思議な草・・・ハワイではマウイのハレアカラだけじゃなくてハワイ島のマウナケアでも見ることができる。・・・まじめな話、ハワイは人生哲学を教えてくれる。ほんと、大げさじゃないんだよ。大自然の営みを見ているとね、人間って本当にちっぽけな生き物なんだなぁって思えてくる。壁にぶつかって、悩んで、悲しんで・・・そんな時にこそハワイに行ってみるべきかも知れない・・・きっと、悩んでいた自分が馬鹿みたいに小さく思えるから・・・自分のエゴに気がついて、所詮自分一人では生きていけないんだということがよくわかる。おおげさに言えば、神様に生かされているんだと、思えるようになる。ハワイはね・・・俺たちに自然体で生きることを教えてくれている。たとえ死に直面したとしても、怖くないと思えるようになる。一度ハワイに行って、風や空気の肌触りを感じるとね、たとえ東京にいたとしてもいつでもハワイに帰れるんだ。頭の中にそれが記憶として刻み込まれているからね。こうやって、ただ目を閉じるだけでいい・・・」
 

・・・はは

エラそうに何を言っているんだオレは・・・みっともなくくよくよしているのはオレの方じゃないか・・・

目を開けると美奈のワインはさっきから減っていないことに気がついた。

恭平は思った。ちょっと一人でしゃべりすぎたようだ。

仕事以外で誰かと会話するなんて最近は無くなっていたせいかもしれない。
 

「ちょっと、一人でしゃべりすぎちゃったな・・・今度は、佐伯さんのこと聞かせてよ。」
 

「あ、美奈って呼んでください。みんなにもそう呼ばれていますから。」
 

「じゃ・・・美奈さんのこと聞かせてよ・・・そういえば、前にも話したけど、4月の2日に西富士霊園で見かけたんだよ。」
 

美奈の顔から、笑みが一瞬消えた。
 

「・・・あの日は、母の命日でした・・・昨年亡くなったんです・・・橘さんは?」
 

「僕の妻も2年前に亡くなって・・・だから3回忌でお参りに行ってた。」
 

「そうだったんですか。」
 

「うん・・・つまり君のお母様のお墓の隣に、妻の墓があって、しかも命日が一緒ってことだな。ちょうど帰ろうと思って立ち上がったら、隣で君が手を合わせていた。・・・一瞬驚いた・・・あまりにも君が・・・妻に似ていたから・・・」
 

「ほんと、すごい偶然・・・それで、こうやって知り合えただなんて・・・先日、カメラマンの下条さんもおっしゃってましたけど、そんなに私・・・奥様に似ているんですか?」
 

「そう・・・なんか、こう・・・醸し出す雰囲気がね。」
 

「ぜひお会いしてみたかったですね・・・橘さん・・・お子さまは・・・?」
 

「いや、いない。結婚して・・・5年経って・・・やっと子供ができたと喜んでいたら、子宮がんでね。だから、今は二人とも天国にいるよ。」
 

「・・・ごめんなさい・・・なんか辛いことを思い出させてしまって・・・本当にお寂しいですね。」

「まぁね、いなくなると彼女の偉大さをあらためて思い知らされる・・・自分ひとりでは、何ひとつできないんだなって・・・ははは、いや、だから俺の話じゃなくって・・・君の話。」
 

「あ、そうでしたね・・・それで私は、一人っ子で・・・」
 

「じゃぁ、今はお父様と二人?」
 

「いえ、父には、母が亡くなる前から・・・その、恥ずかしい話なんですが、愛人がいて、去年の暮れに、その人を籍に入れたんです。私は、大学を卒業してすぐに家を飛び出して、今は、一人で暮らしてます。」
 

「お母様が、好きだったんだね。」
 

「好きというより、私のあこがれでした。母は、服飾デザイナーだったので・・・」
 

「えっ、ひょっとして・・・佐伯麗子?」
 

「はい。」
 

佐伯麗子を知らないものはいない。
一世を風靡したファッションデザイナーだった。
 

「彼女は、確か・・・自殺だった。」
 

「そうです。睡眠薬をのんで・・・」
 

語尾が聞こえなかった。
そして、美奈は握りしめた左手の人差し指を噛んだ。
 

「父の愛人というのが、母のアシスタントだった人なんです。父に愛人がいたというだけでなく、一番信頼していた人でしたから、それを知った母はすごくショックを受けて・・・その日から極度の鬱状態が続いていました・・・私がもっと気をつけていれば、あんなことには・・・」
 

「あんまり自分を責めないほうがいい・・・僕も妻を亡くして後悔する事ばかりだけど・・・でも、どれだけ後悔してももう彼女は帰ってこない・・・だから、今はできるだけ楽しかった時の事を思い出すようにしているよ・・・」
 

「そうですね・・・でも、私は父のことも大好きでしたから、今は裏切られた思いでいっぱいです。」
 

「スタイリストになろうと思ったのはお母様の影響かい?」
 

「はい。治子さんは、母が教えていた服飾デザインスクールの教え子だったこともあって、私の相談に乗ってくれていたんです。卒業したら、手伝って欲しいって言ってくれて・・・」
 

「飯島ちゃんは、優秀だから、彼女についていれば間違いない。」
 

「はい、とても勉強になります。」
 

ときどき作る笑顔が、朝子を彷彿とさせる。
右頬に、小さなエクボが出来るのだ。
 

「そう言えば・・・この間はありがとうございました。」
 

「ん?・・・」
 

「スタジオでの・・・」
 

「ああ・・・あれから何も言ってこない?」
 

「はい・・・撮影が終わると代理店の人に会う機会はほとんどありませんから・・・でも、橘さんはいろいろと影響がおありだったんじゃありませんか?・・・」
 

「ないよ・・・あそこのCDとは昔からの付き合いだし・・・何かあったら彼に相談するから心配しないでも大丈夫。」
 

「なにかお礼をさせていいただけませんか?」
 

「いや・・・お礼なんていい。」
 

「だって今日のお礼もしなければいけないし・・・私の手料理をご馳走させていただけませんか? だめですか?・・・ご迷惑ですか・・・?」
 

「そんなことはないけど・・・」
 

「よかった・・・それに、毎日こんな高カロリーなもの食べてたら、ダメですよ。ちゃんとコントロールしないと・・・だから、ごちそうというより健康管理と言った方が正しいかしら・・・」
 

「ありがとう。確かに最近はそういうこと気にしなくなってたかな・・・」
 

「じゃぁ、なおさらですね。お宅はどちらなんですか?」
 

「世田谷の弦巻。駅で言うと、田園都市線の桜新町・・・」
 

「なんだぁ!私、用賀なんですよ。近いじゃないですか。仕事の様子を見て、たまに作りにいってあげますね。」
 

美奈は3杯目のワインには口をつけずにいた。
恭平は、定番のティラミスはパスしてエスプレッソを頼んだ。

お酒のせいなのか、美奈の表情に少し疲れを感じた。
 

「どうした? 疲れたかい?」
 

「え、ごめんなさい。なんか最近疲れやすくて・・・でも、平気です。若いんですから。」
 

「でも、それを飲んだらそろそろ帰ろう・・・家も近いことだし、送って行くよ。」

 


  7
 

 恭平は、青山の『ロコ』にいた。
朝子との指定席に、ひとりで座っていた。
アイデアをひねり出すのにここが一番いい。
静かで風が気持ちいいからだ。
左の席が彼女の指定席・・・恭平は誰にも座らせないようにバッグを置いた。

次の仕事は、あるドイツ車の企画だった。
メルセデスや
BMW、フォルクスワーゲンは、ポジショニングが確立されている。
それらと、どう差別化させるのか、消費者が、わざわざその車を選ばなければならない理由はなんなのか? 

恭平は横に座っている朝子に意見を聞いた。
 

“無骨なメルセデスに比べて、洗練された優雅なスタイリング・・・高速道路じゃなくて、街中(まちなか)が似合うアーバンな車よね。
優雅な気持ちにさせくれるし、おしゃれをしたくなる。
この車は、女性に受けなきゃだめね。
メルセデスを買うつもりだった夫が、渋々と妻のわがままに従わざるを得ない・・・そんな気にさせる広告でないと、この車は売れないんじゃない?”
 

“と、言っても僕は、今乗ってるメルセデスをこの車に乗り換えるつもりはないよ・・・”

・・・妻のいない僕はターゲットじゃないから・・・
 

朝子との会話が続き、結局5案ほど描き上げた。
 

「橘さん。」
 

振り返ると美奈だった。
例によって、大きな黒いバッグを肩に担いでいる。
耳にぶら下がっている小さなシルバーのピアスが、あまり主張しすぎない彼女の性格を物語っていた。
美奈は、一瞬恭平の右手を見た。
恭平は、彼女に手をひらいてみせた。
彼女はほっとしたように微かに笑みを浮かべた。
 

「仕事?」
 

「はい、今終わって事務所に引揚げるところです。」
 

「そうか、事務所ってこの辺だったね。」


「橘さんは、お仕事?・・・みたいですね。」
 

「いや、今日はそろそろ終わろうかと思っていたところ・・・」
 

「ちょっと待ってていただけますか?・・・この荷物、事務所に置いてきちゃいますね。すぐ、戻ります。」
 

5分ほどで、美奈は戻ってきた。
 

恭平は、バッグをどけて朝子の指定席を美奈に譲った。
 

「今日は帰っていいって、治子さんからお許しが出ました。ここ、一度入ってみたかったんです。なんか、落ち着きますね。」
 

「そう、僕もそこが気に入って・・・ここに通いだして、もう10年以上になるかなぁ・・・」
 

「じゃぁ、常連さんですね。」
 

「そういうこと・・・コーヒー一杯で、夕方まで粘っていても許してもらえる・・・僕は、特権階級なんだよ・・・」
 

美奈が笑った。
美奈の笑顔は、人をやさしい気持ちにさせる。
 

「ここって、ハワイを意識してるのかしら?」
 

「そう、雰囲気だけはね・・・でも実際のハワイは、気候がドライで涼しくて過ごしやすい・・・。」
 

「えっ?・・・ハワイってもっと暑いんじゃないんですか?」
 

「もちろん季節によるけど・・・日中の気温は27〜8度・・・太陽が雲に隠れると寒いくらいだし・・・ゴルフをやっていてもほとんど汗もかかない・・・」
 

「そうなんだ・・・知りませんでした・・・そういえば、橘さん、いつもアロハなんですね。それもパパス。」
 

「さすがにスタイリストだな・・・」
 

「だって、何回かお会いしてますけど、その度にパパスで・・・すごく似合ってるなぁって思っていました。」
 

・・・別にこだわっているわけじゃないんだけどな・・・朝子の見立ては間違いないから、彼女にまかせていただけ・・・

もう、すっかり暗くなっていた。
 

「・・・もし時間があるなら、食事につき合ってくれないか?ちょうど飯を食わなきゃなって思っていたところなんだ。」
 

車は、いつも利用している近くの駐車場に停めてあった。 

恭平は、愛車メルセデスを美奈の横につけた。
助手席のドアが開くと外の暖かい空気とともにほのかなお化粧の香りが入って来た。
 

・・・そう言えば・・・

朝子が亡くなって以来助手席に朝子以外の誰かが座ることはなかったな・・・

恭平は、封印していた朝子の指定席を二つも譲った事に後ろめたさを感じた。

そんな思いがよぎって、朝子との行きつけの店を避け最近開拓した広尾のイルピノーレに向かった。
ハンドルのボタンで電話番号を探してかけた。
 

「はい、イルピノーレです。」
 

スピーカーからの声が車内に響き渡る。

前を向きながら応答する。
 

「橘と言いますが・・・あと10分くらいでそちらに着けると思うんだけど、今から行ってもだいじょうぶかな?・・・二人・・・できれば窓側のテーブルで・・・ありがとう。」

 


 6
 

 撮影当日の朝・・・恭平は、すでに仕事モードになっている。
セットも衣装もパーフェクトだった。
ライティングもイメージ通りだ。
ただ、スタンドイン(ライティングや動きを確認するために、タレントの代わりをする人)によるリハーサルの段階で、演出上のすっきりしない迷いがあった。
タレントの奥村愛菜の準備もすっかりできあがっていた。
スタッフのみんなが、恭平のゴーサインを待っている。
ちょっとしたことなのだが重要なこと・・・モーフィングのきっかけをどうするかということで迷いがあった。
いくつかのシミュレーションが恭平の頭をめぐる。
いつもであれば編集でどうにでもなるようにいくつかのオプションを撮っておくのだが、モーションコントロールや
CGを使うということで、いたずらにカットを増やす訳にはいかなかった。
恭平は腕組みをしたままフリーズしてしまっていた。
 

「どうしたの?何待ち?愛菜ちゃんはスタンバイできてるからね。」
 

治子が近づいてきて耳打ちした。
美奈はタレントの衣装を念入りにチェックしながら心配そうに恭平を横目で見ている。
 

「よし、いくか。じゃぁ、愛菜ちゃんに入ってもらって。」
 

本当は、まだ迷いがあった。
でも、実際にタレントに入ってもらうと、イメージがわくことも過去にはあったのだ。

恭平はいつもの癖で、いるはずのない朝子を探した。

こんなときに朝子がいてくれたら適切なアドバイスをくれたに違いないのだ。

 

恭平は、奥村愛菜を呼んで何回か歩かせた。

あらかじめ予定していた演出を朝子が“ノー”と言っているようで先に進まない。

朝子はいないのに、確実にこの状況をどこかで見ている。

 

「あ、あの、髪を振ったらどうでしょう?」
 

「えっ?」
 

振り向くと、美奈がそばに立っていた。
恭平はその声を一瞬、朝子かと思ったのだ。
蚊の鳴くような小さな声で話している。
 

「髪を振った瞬間に、髪型と衣装がモーフィングするっていうのはどうでしょう?そうすると、なんかこうメリハリがあるっていうか・・・その・・・ごめんなさい。余計なこと言いました。」
 

「いや、いいね・・・」
 

・・・いいじゃないか・・・

そのアイデア。
 

「それいただくよ。ありがとう。」
 

「あ、いえ、そんな。」
 

どうして彼女に、迷いがわかったのか不思議だったが、恭平にとっては適切なアドバイスだった。
まるで、朝子が彼女に乗り移って言わせているんじゃないかと思うほどだ。
すっかり迷いが吹き飛んだ。
 

「オーケイ!じゃぁ、愛菜ちゃんいくよ。ここまで歩いたら、一瞬カメラを振り返るように髪を振って。・・・そう、そういうこと・・・それでいこう・・・いいねぇ・・・その時、最高の笑顔をちょうだい。・・・それで、さらにここまで来たら、今度は一回転してみようか。そう、髪を振ること忘れないで。目線はここね。えっと、誰かここに何か目印作って。愛菜ちゃんの目線がきちんとくるように。よし、一度リハするよ。照明いいかい?カァメラァ!・・・ アクション!」
 

つなぎ(編集のこと)のイメージも見えた。
 

「カァーット!」
 

恭平は、ストップウォッチを見た。
 

・・・完璧・・・

「いいね。続けて本番いこう。」
 

「はい本番いきます!お静かに願いまぁす!」
 

制作の斉藤が大きな声を張上げると、エアコンが止められライトが全開した。
ピーンとした空気がスタジオ中に張りつめる。
美奈と治子が、急いで愛菜の衣装を整えた。
同時にヘアメイクの谷山が髪にブラシをあてた。
終わるとカポック(照明のための発泡スチロールの板)の後ろに退いた。
一同が一斉に恭平の顔を見た。
 

「カァメラァ!」
 

と、気合いを入れて叫んだ。
この一言がすべてのスタッフのスイッチをオンにする。
 

「ローリン」
 

と、モーターが安定したことをカメラ助手が知らせる。

静かなスタジオにカメラのモーター音が響き渡り、フィルムが凄まじい勢いで回る。
緊張が走る。
カメラが移動を始める。
 

「アークション!」
 

愛菜が動く。
彼女の演技に与えた時間は6秒半。
 

・・・なかなかいい表情だ。・・・

所定の場所で髪を振った。
笑顔が決まった。
 

「カァーット!」
 

ストップウォッチを見る。
問題はない。
カメラはコンピュータで制御されているから、問題があるとすれば愛菜の演技だ。
ビジコン(カメラのファインダーの映像がモニターできる装置)で演技をチェックする。
 

    ・・すばらしい。・・・

クライアントとCDOKもでた。
一発
OKというのもめずらしい。
衣装とウィグを替えて同じことを後2回行う。

恭平は思った。
 

・・・美奈のおかげで、久しぶりにいい仕事になりそうだ。・・・

 

 夜も12時を過ぎると、さすがに疲れてくる。
タレントは、とっくに帰っていた。
手タレを使っての商品カットを残すのみとなっていたが、ライティングにまだ1時間はかかるだろう。
 

「いよいよ最後のカットですね。コーヒーでもいかがですか?」
 

恭平が振り返ると、煎れたてのコーヒーを持った美奈が立っていた。
ちょうど飲みたいと思っていたところだった。
 

「ありがとう。君のアドバイス・・・助かったよ。」
 

「いえ・・・でも、でしゃばったんじゃないかと心配で・・・」
 

「そんなことない・・・俺たちみんなで作ってるんだ。これからも、思ったことは遠慮しないで言ってくれていいんだよ。」
 

「はいっ。」
 

先生に褒められた小学生のように、うれしそうな顔をして治子の方へ戻って行った。
 

 最後のカットを撮り終えたのは結局朝の3時を過ぎていた。
気がつくとセットはほとんど取り壊されている。
制作はこれからさらに片付けが、そして撮影部は撮り終えたフイルムを現像に出すという大事な仕事が残っている。
恭平は、身の回りを片付けると彼らに
労いねぎらいの言葉をかけて駐車場に向かった。
 

「やめてください!」
 

一番奥の駐車スペースに、男ともみ合っている美奈が見えた。
 

「止めろ。嫌がっているじゃないか!」
 

恭平は後ろから腕をとってねじ上げると、男はたまらず地面に膝をついた。
見ると代理店の若い
ADだった。
 

「痛ててて・・・何すんだよ・・・ただ家まで送って行くと言っただけじゃないか・・・」
 

美奈を見ると両腕を胸の前でクロスしてかたまっていた。さらに腕をねじ上げた。
 

「そうは、見えないけどな・・・?」
 

「わかった・・・わかったから放して・・・」
 

腕を放すと、いきなりなぐりかかってきた。
恭平は、瞬時に左に身をかわして、どてっぱらに1発、そして身をかがめた瞬間に右膝で顔面を蹴り上げると男はもんどりうって倒れた。
鼻から血が噴き出している。
 

「ちくしょう・・・俺がCDになったら、絶対にあんたは使わない・・・」
 

捨て台詞を吐いて車に乗り込んだ。
思いっきりアクセルをふかすと、機嫌の悪いタイヤがアスファルトに八つ当たりして煙を上げた。
広告代理店と言う立場を笠に着て、スタッフを業者呼ばわりするバカがいる。
嘆かわしいことだ・・・と恭平は首を振った。
 

「大丈夫か?」
 

「・・・はい・・・橘さんこそ怪我は?」
 

右手の拳と膝に少し血が付いていた。
膝の血は、恭平のではなかった。
 

「あ、血が付いてる。」
 

美奈は、ティッシュをつばで濡らすと丁寧に拳の血を拭き取った。
恭平は、美奈がバンドエイドを貼ってくれている間、少し照れくさく感じていた。
美奈はズボンの血に気がついた。
 
 
「これは、あいつの血が付いただけだから・・・」

 

「本当に、ごめんなさい。」
 

「君のせいじゃない・・・」
 

そこに治子が戻ってきた。
 

「なんかあったの?」
 

「何にもないさ・・・おつかれさん。」
 

美奈が車に乗り込むのを確認してエンジンをかけた。
こちらを見ている美奈に向かって人差し指を口に当ててみせた。
小さな二人の秘密だった。

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