読むと旅行したくなる純愛小説

恋に不器用な男の書いた純愛ストーリー


  2月12日
 

 5日が経とうとしていた。

田口巡査は、毎日2回顔を見せてくれた。

決まって朝10時頃と夕方5時頃。

今日は、ちょうど検温が終わった4時55分に2回目の訪問を受けた。
 

「どうですか、具合は?」

「頭痛の方は、ずいぶん良くなりました。」

「それは、よかった。実は、今日あなたにぜひお会いしたいという方をお連れしているんです。のりこちゃん、君もここに来て。」
 

田口巡査は、ドアを開けてその人を中に招き入れた。

即座にのりこが反応した。
 

「ママ!」
 

のりこは、その女性の胸に飛び込み泣きじゃくった。

その人は45、6歳の品のいい女性だった。

身なりは質素であったが、上品なセンスと知性を感じさせた。

そしてその女性ものりこを抱きしめて泣いた。
 

「のりちゃん、つらかったね・・・大丈夫・・・もう、大丈夫だからね・・・。」
 

母親は、バッグからハンカチを取り出してのりこの涙を丁寧に拭いた。
 

「ママ、ごめんね・・・」
 

田口巡査は、2人の肩をそっとたたいた。

そして、わたしに向かって言った。
 

「この方は、江渕可南子さんとおっしゃいます。当然、のりこちゃんは江渕のりこ、可南子さんの娘です。実は、今世間を賑わせている江渕譲氏の奥様とお嬢様なんです。」
 

私は、驚いた。
今、時代のまっただ中にわたしはいるのだった。

父親の政界を巻き込んだ汚職、そして隠し子の誘拐事件・・・16歳の汚れを知らない純真なのりこにとって、さぞかしつらく重い出来事だったに違いない。
 

「娘があなたにおかけしたご迷惑をどうかお許しください。そして、娘の命を助けていただいたこのご恩は一生忘れないでしょう。本当にありがとうございました。」
 

2人は寄り添うように深々と頭を下げた。
 

「どうか頭をお上げください。わたしは、自分の名前さえ覚えていません。つまりその・・・のりこちゃんを助けたことさえ覚えていないのです。それに、このまま記憶が戻らない方がわたしにとっては、都合のいいことかもしれませんし・・・だから、どうか気になさらないでください。のりこちゃんもね。」
 

のりこが、悔いているのは十分わかっていた。
 

「あの、今回のこと・・・つまり、記憶をなくされたことは私たちの責任と思っております。差し出がましいこととは思いますが、このまま私たちに身の回りのお世話を続けさせていただけないでしょうか。わたしたちもマスコミから身を隠している状態で不自由をしておりますが、せめて記憶が戻るまで・・・」

「それはいい。ね、ぜひそうさせてもらったらどうですか?」
 

確かに、この病院にいつまでもいるわけにはいかない。

あと3日で退院だった。

しかも今の私には、金もなく帰る家さえなかった。
 

「でも、ご迷惑じゃ・・・?」

「いえ、ぜひそうさせてください・・・ね、のりこも賛成でしょ?」
 

小さく頷いたのりこは懇願するような目つきでわたしを見た。
 

「ありがとう・・・本当は助かります。」

「よし、決まった! いやぁよかった、よかった。そうだ、明日の朝、気分転換に釣りにでも行きませんか? 僕、非番なんです。 過去は忘れちゃったことだし、この大島でのこと、あなたの第二の人生の一番最初の思い出になればいいですよね。」
 

田口巡査は、天真爛漫だった。
誠実そのものだった。

わたしは、彼がこの小さな島の巡査で終わるような男ではないと感じていた。


  1988年2月9日
 

 のりこは、目が大きくて鼻がかわいかった。

口は小さめですぐ横に小さなほくろがあった。

誰かアイドル歌手に似ているような気がしたが・・・もちろんそれが誰であったかは思い出せなかった。
 

「のりこちゃん、テレビをつけてくれないか?」
 

自分が誰であるかわからないという苛立ちから逃れるために・・・そして、きっと以前は普通に見ていたに違いない番組に少しでも自分を見つける手がかりがあるかも知れないと期待していた。

ちょうどそのときやっていたのはワイドショー番組だった。
どうやら事件らしくてマイクを持ったレポーターたちが大勢でひとりの男をとり囲んでいる。

その男は、就職情報誌をめぐる汚職事件の中心人物で愛人に生ませた3歳の男の子を誘拐され、まんまと1億円を奪われたというのだ。
 

“1億円を用意したのは江渕さん、あなただというのは本当ですか?”

“マモル君は、あなたの子ですよね?”

“このアウトフォーカスの記事は事実ですか?”
 

「イヤな事件ね・・・」
 

のりこは、そう呟いてテレビを消してしまった。
 

「どうした・・・大丈夫か?」

「えっ、何が?・・・ね、リンゴむいてあげるね。」
 

私は、リンゴをむいているのりこをずっと眺めていた。

この子は、きっといい暮らしをして来たに違いない。
でも大人と子供の狭間で何か苦しんでいるようだった。

本当だったら男の子に夢中になり、おしゃれに興味をもつ年頃だろうに・・・。

リンゴの酸っぱさが口の中一杯に広がり何か懐かしかった。
 

「のりこちゃん、ちょっと外に出てみたいんだけどつきあってくれないか?」
 

のりこは、もちろんというように微笑んだが、すぐに不安な表情になった。
 

「平気さ、僕のは病気じゃない・・・ただの記憶喪失なんだから・・・」
 

大島は、椿が満開だった。

病院は、丘の上に建っていて眼前に海が広がっていた。

私たちは、そのキラキラと銀色に輝く海を見下ろせるベンチに腰を下ろした。
 

「まったく何も思い出せないの?」
 

海に顔を向けたままため息をつくようにのりこが言った。
 

「うん・・・でも、そんなに心配することのほどでもないよ。ただ、頭が少しパニックを起こしているだけなんだ。だって、あの花が椿だということもわかっているし、ここが大島であることも・・・さっきのりこちゃんがむいてくれたリンゴをかじった時も何か懐かしい感じがよみがえって来たし・・・ちょっとしたキッカケがあればすべて思い出せるような気がしてる・・・それと、田口さんが言うように、僕は東京に住んでいたんじゃないかと思う・・・もちろん根拠はないけどね・・・。」
 

私は、本当にそう考えていた。

そして、ここを出たらとりあえず東京に行ってみようと・・・。
 

「のりこちゃん、君はこれからどうするつもりなんだ?」
 

のりこは黙っていた。
 

「何があったのか無理に聞きだすつもりはないけど・・・ただ、ご両親が心配しているんじゃない?・・・いつまでも僕の看病をさせる訳にはいかないし・・・もし、本当に償いをしたいのなら・・・家に帰るんだ。」

「わかってる・・・わかってるけど・・・」
 

苦しんでいた。
小さな胸が何か大きな力で傷つけられているようだった。

太陽が沈もうとしていた。
のりこの顔が夕焼け色に染まっていった。


  3
 

 次に目を覚ましたのは3時間後のことだった。

からだ全体が上から何かにのしかかられたように重かった。
 

「記憶喪失だって・・・」
 

少女だった。
目に一杯涙をためて立っていた。
 

「私が、あんなことをしたばっかりに・・・本当にごめんなさい。」
 

まだ少し頭痛がしたがベッドを起こしてもらって少女の顔を覗き込んだ。
 

「記憶喪失・・・そうか・・・」
 

私は、さっきより落ち着いていた。

そして、ようやく自分のおかれている状況を理解した。

それは、ただ理解したというだけで解決にはならなかった。

これから、どうしたらいいのだ・・・?帰る家さえわからないのだ。

なぜ、大島にいるのだ?・・・いや、それとも大島の住人なのか?・・・指を見た・・・爪が少しだけ伸びていた。
顔を触ってみる・・・ヒゲはきれいに剃られていた。
目は悪くないらしい・・・体は結構筋肉質だ・・・自分の体を客観的に眺めてみても自分が何者なのかはわからなかった。

考えても仕方がないことがわかると、しばらく外の景色をボーッと眺めていた。

窓の外には、椿の木とその向こうに海が見えた。

ふと、少女のことを思い出した。

ベッドのそばにまだ立ったままで、私を不安そうに見ていた。
 

「ところで・・・君は自分の名前を覚えているかい・・・?それとも、君も忘れちゃった・・・?」
 

少女の顔に少し笑顔が見えた。
 

「のりこ・・・」

「中学生・・・?」

「16歳・・・」
 

どうみても、高校生には見えなかった。
 

「失恋でもしたか・・・?」
 

のりこは、うつむいてかぶりを振った。
 

「ごめん、言いたくなかったら言わなくてもいいんだ・・・でも、家の人には連絡したの?」

「・・・」

「オーケイ、わかった。大丈夫・・・もう何も聞かないから・・・」
 

そこへ、巡査が入って来た。
 

「どうですか・・・ご気分は?」

「まだ少し頭痛がするけど、もう大丈夫だと思います。ご心配をおかけしました。」

「それはよかった。でも、名前も思い出せないんじゃ困りましたね・・・もちろんどこから来たのかも思い出せないんですよね・・・?」

「申し訳ありません。」

「いや、仕方がないですよ。だけど・・・あなたが助け上げられたときポケットには何も入っていませんでした。旅館やホテルにもそれらしき予約も入っていませんし・・・つまり、あなたが誰でどこから来たのか、今のところ手がかりがありません。ただ、大島の住人ではないようです。たぶん、訛りもないし・・・東京か・・・その近辺の方であることには間違いないでしょう。ま、ここでしばらく静養したら何か思い出すかもしれません。」
 

その巡査の名前は田口と言った。
人懐っこくてなんとなく気が合う感じがした。
とにかく私は、あと1週間この病院に世話になることになった。

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