2
天井にハエが2匹とまっていた。
いや、一匹かもしれない。
ここはどこなんだろう?
小さな四角い天井がこの部屋の大きさを想像させてくれた。
たぶん四畳半程度の個室のようだ。
全体的には白く、所々にシミができている。
ハエがこすり合わせていた手をとめて、今度は蛍光灯の周りをグルグルと勢いよくまわりはじめた。
私は、この光景をずいぶん昔に一度見たことがあったような・・・そんなモヤモヤした気持ちで眺めていた。
しかし、どれだけ眠っていたのだろうか・・・なんだか頭が重たく耳鳴りがひどかった。
壁に白くて丸い飾り気のない時計がかかっていた。
10時を少しばかり過ぎている。
ゆっくりと頭を右にまわして窓の外を見ると赤い椿の花がひとつポツリと落ちた。
「やぁ、気がつきましたね。」
その男は巡査だった。
背筋がきちんと伸びて、髪は短くクルーカットにしている。
年の頃は30くらいだろうか・・・帽子を左腋の下にはさんでドアのところに立っていた。
私は、ゆっくりと身を起こそうとしたが、体が重くて動かない。
「あ、まだ無理ですよ。あなたは、二日も眠っていたのですから・・・」
“二日も?・・・?どうりで・・・”
巡査は、それだけ言うと急いで部屋を出て行った。
すぐに医者と看護師がやってきて
一通りの検査を行った。
特に問題はないようだ。
巡査は、ベッドのそばの小さなイスに腰掛けた。
「早速ですが2、3お聞きしたいことがあるのですが・・・かまいませんか?もし・・・」
私は、できるかぎり大げさに微笑んでみせた。
巡査も小さく頷き微笑んだ。
笑顔がとても優しく歯が白かった。
私が病院にいることは理解したが、何故いるのか?・・・どうして巡査がいるのか?・・・わからなかった。
巡査は少しイスをベッドに近づけて胸のポケットから手帳を取り出した。
「まず、お名前から伺いましょうか・・・?」
“えっ・・・”
名前を聞かれて戸惑った・・・答えられないのだ・・・
私は・・・誰なんだ?・・・
思い出せない。
巡査は、私の唇が動くのを我慢強く見つめている。
でも、どうしても思い出せない・・・私が、誰なのか・・・どうしてここにいるのか・・・?
現状を理解することもできずにただ焦るだけだった。
私の頭の中がパニック状態に陥った。
脳の後ろ側が冷たくなった。
巡査が心配そうに私を覗き込んだ。
「私は、どうしてここに・・・? ここは・・・?」
私は、もう一度室内を見回した。
何もない・・・私を示すヒントも・・・そして先ほどの蝿さえもいなくなっていた。
巡査は、手にしていた手帳を静かに閉じた。
そして、手で両肩を抱えて元の位置に寝かせてくれた。
「ここは、病院です。大島市民病院。あなたは、自殺を図ったある女性を助けようと海に飛び込んだのです。そのとき運悪く高波があなた方を襲ってね・・・」
ゆっくりと、ゆっくりと丁寧に・・・でも巡査の声がだんだんと遠ざかってゆく。
私は、何も思い出せなかった・・・大島・・・? 海・・・?
私の頭はぐるぐると渦を巻いていた。
急激な不安が私を襲った・・・わからない・・・今にも気が遠くなりそうで吐き気をもよおしてきた。
「その女性は・・・?」
やっとのことでそれだけ言うと、巡査は私を安心させようと頬の筋肉を一段と緩め、私の右の手の甲をポンポンと2回やさしく触った。
「大丈夫ですよ。軽いかすり傷程度ですから。もうここに戻ってくる頃です・・・ほら、来ましたよ。」
私は、彼の目線を追った。
その少女は、生けたばかりの花瓶を持っていた。
無機質な部屋が明るく色づいた。
まだ、中学生だろうか・・・幼く見える。
髪を後で一つに束ねてポニーテールにしていた。
白いモヘアのセーターを素肌に着てジーンズをはいている。
そして目の優しい子だった。
「ごめんなさい!」
やっとそれだけ言うと少女は体中をひくひくと震わせて嗚咽した。
私は、彼女に近くに来るように促し、手を握りしめて精一杯の笑顔を作った。
「この子は、あなたがここに運ばれて以来ずっとつきっきりで看病してくれていたんですよ・・・どうしてそんなことをしたのか頑なに口を閉ざしていますがね。」
巡査は立ち上がって、少女の肩に手を置いた。
「ところで、あなたのお名前を教えていただけないでしょうか・・・?」
「・・・実は・・・思い出せないんです・・・僕が誰なのか・・・今のこの状況でさえ・・・」
私は巡査に手伝ってもらいベッドからゆっくりと起き上がり部屋の隅にある鏡を覗き込んだ。
そこには、さっき水面の向こう側にいた男が映っていた。
私だったのだ。
私の体から生気というものすべてが出て行った。
長い沈黙だった。
巡査は、ふと気がついたように少女の方を見た。
少女はやっとのことで立っていた。
私は、この少女のためにも何か少しでも思い出したかった。
しかし、考えても、考えても何も思い出せない。
私は、大きく深呼吸し呼吸を整えようと試みた。
吸っても、吸っても空気が肺に入って行かない。
全身から汗が噴き出している。
大声で叫びたかった。“たすけてくれ!”
そこで急に頭が締め付けられるように痛んだ。
「君、先生を呼んで来てくれ!」
遠くで巡査の声が聞こえた。
私はまた気を失ってしまった。