読むと旅行したくなる純愛小説

恋に不器用な男の書いた純愛ストーリー

2016年06月


3月11日
 

そして、10時ジャストにダイヤルをまわした。
 

「もしもし、西田です。」
 

わたしからの突然の電話に西田は非常に驚いていた。
私たちは昼食を約束した。

待ち合わせた場所は、銀座小松ビル地下のインド料理店、マハラジャだった。

西田は、小柄だがダイエットを必要としていた。
 

「いやぁ、心配したよ。いったい何があったんだ?」
 

わたしは、かいつまんで大島での事故のことを話した。
しかし、わたしが今のりこの家に世話になっていることは伏せておいた。
 

「そうか・・・記憶喪失か・・・俺がおまえと最後にあったのは・・・」
 

西田は、上着のポケットから手帳を取り出してスケジュールを確認した。
 

「確か1月25日月曜日・・・そう、間違いない・・・あの日は、お前の給料日で、おごるから付き合えって珍しく電話をくれたんだ。でも、おまえ随分落ち込んでた。例の江渕の件で行き詰まっていたから・・・」

「そうみたいだね。なんとなくその頃の自分の状態が最悪だったってことはわかっているんだ。でも、どうして大島に渡ったんだろう?」

「そうだな・・・確かにあのときはどこかに旅行するって一言も言っていなかったから・・・もし、大島行きを決めたとしたら、25日以降に何らかの心境に変化があったってことだろうな・・・」

「そうか・・・それを君に聞くのは無理があるな・・・」

「それに、あのときお前はあまり口をきかなかった・・・というより、俺の方が一人でしゃべっていたんじゃないかな・・・そうそう、あの日俺は世間をあっと言わせる大ニュースを持っていたんだ。しかし、例のあの事件で掲載が遅れちまったけどね。ははは・・・」

「君もあの1億円誘拐事件に振り回されたってわけか・・・」

「しかし、うまくやったもんだ。これこそ完全犯罪ってやつだな。」

「完全犯罪・・・?」

「そうさ、世間を味方につけた。見事さ。見事な完全犯罪さ。世間は誰もこの犯人が捕まることを望んでいない。」
 

ショックだった。犯人はアルセーヌ・ルパンか・・・
 

「それにこれはここだけの話にして欲しいんだけど・・・2月の3日から4日の間に相次いで全国の養護施設に100万円単位でなぞの寄付金が送られているんだ。その数38カ所、金額にして3800万円・・・」

「つまり、それと強奪された1億円とは関係があると・・・?」

「たぶんね。」
 

はっきりいってわたしの心は大きく揺れていた。
わたしは、世間を敵に回さなければならないのかもしれない。
 

西田はさも満足そうにタンドリーチキンをほおばっていたが、わたしはあまり食欲がなく、ラッシーを飲んだ。

わたしは考えていた。
誘拐はほとんど成功しない。
それは、金の受け渡しが難しいからだ。
しかしこの犯人はいとも簡単に成功してみせた。
支払われた1億円はいずれ追徴金として国庫に入る金であった。
そして、その金は養護施設に寄付された。
偽善者というには容易い(たやすい)が、そのためにおかした危険も大きかったはずだ。
なぜ、そうまでして・・・絵里子と江渕の関係を知っていたのは・・・まず、絵里子と江渕本人、絵里子の弟、修・・・絵里子の高校時代の恋人、近藤浩・・・しかし、あの近藤浩が養護施設に寄付するだろうか・・・寄付されたのは3800万だけ・・・今のところは・・・3800万は目くらましかもしれない・・・
 

「オイ・・・オイ、高木・・・大丈夫か?」

「あ、ごめん・・・さっき、たしか世間をあっと言わせるニュースを持っていたと言っていたよな・・・」

「ああ、江渕に愛人がいて隠し子までいたって話かい?」

「やっぱり・・・それ、どうしてわかったんだ?」

「女の声で匿名の電話があったんだ。あのときも言ったろ、確証がつかめるまでずっと張り込んでてやっと写真に収めたところだった。あの事件のために掲載が遅れたけど効果抜群の大スクープさ。」
 

    ・・西田もリストに加えた。
 

「ところで、おまえアマチュア無線には詳しいのか?」

「ははは、俺はお前と違ってそういうのはてんでだめなのさ。」
 

わたしは、絵里子の弟の修に会わなければと考えていた。
のりこに午後からの行動を連絡した。
田口と松永から電話が入っていた。

田口とはお互いの情報交換のために夜8時に食事を約束した。

松永からは江渕の隠れ場所をつかんだという話で明後日の朝会うことにした。

修の勤めている稲城の自動車工場は、従業員5人程度の小さな工場だった。
工場の横の空き地には、ボディに白いチョークの入った車や、おそらく車検のための車が約10台ほど置かれている。
白いつなぎを着た、まだ20才くらいの若者が書類を手に工場から出て空き地に置かれている整備完了の車に乗り込んだ。
わたしは近づいて窓をノックした。
彼は、怪訝(けげん)そうにわたしを見つめ、窓を開けようとしたがパワーウイインドウのためイグニッションキーがオンになっていないと開かないらしく、少し手間取ってやっと窓が開いた。
わたしにしてみれば、ドアを開ければいいものを・・・と思ったが口には出さなかった。
 

「何か用?」
 

わたしは、TOKIO CITY NEWSの手帳を見せた。
 

「ちょっと、林修君についていろいろ聞きたいことがあるんだけど10分ほどいいかい・・・?」

「悪いけどさ、今ちょっと忙しいんだよな。これから、世田谷まで納車なんだ。」

「じゃ、もし差し支えなければそこまで一緒させてもらえないかな?」
 

少し面倒くさそうだったが、渋々了解した。

私たちは、鶴川街道から川崎街道に入り多摩川沿いに走った。
 

「で、話って何?修がどうかしたの?」
 

彼は、タバコの灰を車内に落とさないように窓から手を突き出して左手1本でハンドルを握っている。
 

「いや、別に何もしちゃいないさ。ただ、あることでどうしても修君に会わなくちゃならなくてね。そこでいきなり会う前に下調べしておきたかったんだ。」

「ふうーん・・・でも別にこれといって話すことなんか何もないよ。まじめで、おとなしくって、少し暗いけど、いいやつさ。」

「最近、特に変ったことなかったか? 例えば・・・急に金回りが良くなったとか。」

「・・・そういえば、俺のダチが1週間ほど前に見たらしいんだけど・・・あいつポルシェを転がしていたって言うんだ。真っ赤な911カレラを。俺、そんなの何かの間違いだろうって言ったんだけど・・・絶対に間違いないって言うし・・・でも、俺たちの給料じゃ逆立ちしたって無理だぜ。」
 

私たちは納車を終え、ついてきたもう一台の車で今来た道を戻った。

 

 修は髪を茶色に染めていたがおとなしいその辺にどこにでもいるごく普通の若者だった。

体中油だらけの修は、腰にぶら下げた油だらけのタオルで手を拭きながら私のところへやってきた。

彼にもTOKIO CITY NEWSの手帳を見せた。
一瞬だったが修の顔色が変わったのを私は見逃さなかった。

私たちは、工場のはす向かいにある喫茶店に入った。
修はクリームソーダ、私はブレンドコーヒーを頼んだ。
 

「ポルシェに乗っているんだって?」

「えっ? いや・・・はい、それが・・・?」
 

私のいきなりの質問に修はうろたえた。
 

「高いんだろうね・・・ローンも大変でしょ?」
 

私は、修に考える暇を与えなかった。
 

「・・・好きですから・・・」

「でも、どうしてみんなに内緒にしているのかなぁ・・・あこがれの車でしょ・・・言いふらしたくないの?」

「あ、あの・・・そんなこと聞くためにここへ来たんですか?・・・僕が、何を買おうと関係ないと思うけど。」

「ごめんごめん、立ち入ったこと聞いちゃったね・・・でも、聞きたいんだ。ポルシェ911カレラといえば、軽く1000万を超える車だろ? それを君がどうやって手に入れたのか・・・父親のいない君が・・・そして病弱な母親の面倒を看なくてはならない君が・・・それをどうやって手に入れたのか・・・いいかい、さっき僕は直接ポルシェの日本総代理店に電話をかけて調べたんだ。例えば500万を頭金に48回のローンを組んだとしても月々15万、ボーナス時にはさらに50万が加算される計算になる・・・それなのに、どうして君はそれを手に入れることができるのか・・・僕にはとても興味があるんだ・・・そう、うちの読者もね。」
 

修の目は落ち着かず、空っぽの頭がフル回転してカラカラと空虚な音が聞こえてきそうだった。 

修は、口の乾きに耐えきれずクリームソーダを一口飲んだ。
 

「もしこれが・・・何らかの・・・犯罪と関係しているんだとしたら・・・例えば誘拐とか・・・」

「違う・・・それは違う!」
 

さいわい店内には客はひとりもいなかった。

ウエイトレスを兼ねたオーナーがちらっとこちらを見たが再び伝票の整理を始めた。
 

「何が違うんだ!」
 

修は終止落ち着かず言うか言うまいか悩んでいた。
 

「ま、いいさ。どうもこれ以上は警察の仕事らしいな・・・とりあえず、書けるところまで書くか・・・」

「わかった、言います。・・・俺たち江渕から金をもらいました。」

「俺たち?・・・金をもらった?・・・共犯は誰なんだ?・・・それにもらったんじゃなくて身代金の強奪だろう。」

「違う!俺たち、あの事件とは関係ないんだ・・・ただ、姉貴のことバラすって・・・江渕の奴、マモルのことを認知しないし・・・だから俺たち・・・」

「もうひとりは、近藤だな。」
 

修は、すべてを観念したように小さく頷いた。

私は、その場で田口に連絡をとり近藤からウラを取るよう依頼した。

田口とは、約束通り8時きっかりに原宿のイタリアンレストラン“ヘブン”で会った。
 

「ごんべぇさん、お手柄ですよ。確かに修が言っていたことは本当でした。近藤の供述とぴったりと合いました。」

「ピッタリ合った・・・?つまり、それは、ただのユスリであって誘拐の犯人じゃないってこと・・・?」

「残念ながら・・・そういうことです。首謀は近藤で、マモル君のことをネタに3000万ユスってました。しかし、この件に関しては江渕からの訴えがない限り事件として扱われません。ま、訴えるわけはないですが・・・だいたい今度の事件はあんなチンピラにできるヤマじゃないですよ。」
 

私は、振り出しに戻ってしまった。

マンションに戻ったのは12時前のことだった。

のりこが出迎えてくれた。
 

「ごんべぇさん遅いんだもん・・・待ちくたびれちゃった。」

「ごめんごめん、田口さんとちょっとね・・・」

「ごんべぇさん、明日私とデートしてくれる?マモル君も一緒だけど。」

「ああ、いいよ。ちょっと気分転換が必要だし・・・」

 


3月10日
 

 霧笛の音で目が覚めたとき、麻由美はまだ寝息をたてていた。
麻由美を起こさないようにベランダに出ると潮風が気持ちよかった。
 

「おはよう・・・早いのね。」
 

自然光の中で見る彼女は一段とすてきだった。
 

「ごめん、起こしちゃった?いつもこの時間はジョギングから帰ってきて、ちょうどシャワーを浴びている頃かな・・・」

「あなたが?・・・ジョギング?・・・シャワー?・・・信じられない・・・」

ある種のショックを感じていた。
どうも記憶を失う前の私と今では相当のギャップがあるようだ。
 

「タバコも止めたのね。あんなにヘビースモーカーだったのに・・・何度も禁煙を試みて何度も挫折を味わったのに、自分がヘビースモーカーだったことさぇ覚えていないなんて・・・」
 

もし禁煙したければ記憶を失うといいかもしれない・・・
 

「そろそろ帰るよ・・・」
 

麻由美は、帰ろうとする私の背中に頬を押し当てて言った。
 

「また、会える?」

「もちろん・・・また、連絡するよ。」
 

青山のマンションに戻ったのは朝の8時だった。
誰にも気づかれないようにそっと入り自分の部屋を押し開けた。
 

「のりこ・・・どうしたんだ?」
 

目を真っ赤に泣きはらしたのりこが立っていた。
 

「遅いから心配してずっと待っていたんだもん!」

「ばかだな、夜通し飲んでいたんだよ。」

「麻生さんと?」

「あぁ・・・でも、なんでもないんだよ彼女とは。」

「なんでも、ないって?」

「つまりだな・・・その・・・」
 

・・・自分でも何を言っているのかわからなかった。
 

「・・・信じてるよ・・・」
 

私は、のりこを抱きしめた。
妹のように思っていたのりこがどんどん女になってゆく。

 

 田口から電話があったのは10時を過ぎていた。
昨日のことを報告して、今日は深大寺の陸橋あたりに行ってみるつもりだと伝えた。
田口の方はあまり進展していないようだった。

のりこは、そのまま起きていた。
 

「ごんべぇさん、今からまもる君に会うんだ。でもママには内緒ね。」
 

そういって飛び出していった。

私は、いつもより遅いシャワーを浴びてマンションを出たのは12時を過ぎてからだった。

先に柿の木坂によって車で行くことにした。

車は、深いグリーンのカルマンギアだった。

案の定、エンジンが言うことを聞かない。
かかりそうでかからずあきらめかけていたところへ、若い学生風の男が近づいてきた。
 

「手伝いましょうか?」
 

彼の車とケーブルをつないでエンジンをかけた。
頼りなかったが、心地いい音だった。
 

「バッテリーを早めにかえた方がいいかも知れませんね。」

「ありがとう、そうするよ。」
 

安定するまで、しばらくエンジンをかけたままじっとしていた。

記憶を失った私の体はまだ運転を覚えていた。
ギアをローに入れてゆっくりと確かめるように発信した
。いつエンストするかわからない。
最初に見つけたガソリンスタンドでとりあえずバッテリーを変えた。
ガソリンを満タンにして道路地図を買った。

私は、運転に慣れるために高速を使わなかった。

今日は、ポカポカと暖かくウインドウを開けて風を直接肌に感じながら走った。
環七を走り甲州街道を新宿方面に右折した。
そして新宿の駐車場に向かった。
200台は入るであろう結構大きなスペースを有していた。
C-8は一番出口に近い場所にあった。
奥だと死角になってしまう。
この死角は犯人にとっては逆に都合が悪かったのだろう。
警察の動きが見えた方がいいのだ。
このスペースにこだわるとすればかなり前から狙っていたに違いない。
便利な出口に近いということはそれだけ早めにうまってしまうからだ。
しかし、出口近くには監視カメラが備えてあったのだが、田口の話ではつや消しスプレーを吹いた後があったそうだ。
ぼかした幻想的な雰囲気を出すために写真撮影で使うものなのだそうだ。
つまりガムテープを貼ったり、真っ黒いスプレーを吹きかけると早めに気づかれてしまうが、つや消しだと軽く吹き付けるだけでいい。
少しぼやけるだけなのですぐに係員が駆けつけることもなく、また映った犯人の映像はぼけていて判別が不可能ということだ。
今ちょうどC-8から車が出て行った。

私は、甲州街道に戻り初台から首都高に入った。
まだ、少し車線変更に戸惑いがあったし、できるだけ事件当日に忠実に走りたかったので左の斜線をゆっくりと走った。
それでも後ろの車が遅いといってクラクションを鳴らしてくる。
これでは、警察も尾行はむずかしかったはずだ。
高井戸を過ぎてしばらくすると料金所がある。
そこから深大寺のバス停まではほんの3分ほど。
陸橋が立て続けに7本かかっている。
陸橋にはそれぞれ名前が付けられていた。
蛇久保、原山、北山、絵堂、深大寺上野原、深大寺池ノ谷、そして深大寺池ノ上。
それがバッグを吊り上げたという7本目の陸橋である。
バス停には誰もいなかった。
私は、そこで車を降りて橋の上を見上げた。

調布の出口はそこからさらに3分ほどかかった。
ふたたび甲州街道に入りこんどは逆に新宿の方に向けて走り先ほどのバス停の陸橋の上で車を停めた。

周りの人通りは少なかったがこの時間車は結構多かった。

下をのぞいてみた。
6メートルほどのロープがあれば事足りるように思われた。
多分、犯人は先回りしてここからトランシーバーで絵里子に指示を送っていたに違いない。
反対側からのろのろ走ってくる車のヘッドライトを見ていれば特定できるし、警察車両が尾行していないこともわかるからだ。
一月の終わりと言えば5時を過ぎるともうかなり薄暗かったはずだ。
ほとんど誰も気づかなかっただろう。

私は、陸橋を渡り左に曲がった100メートルほどのところにあるコンビニエンスストアーによって缶コーヒーを買った。

青山のマンションに戻ったのは夜の9時をちょうど回ったところだった。
のりこはすでに帰ってきていた。

のりこが可南子に聞こえないように口を近づけてそっと言った。
 

「後で話してあげるね。」
 

それを見ていた可南子が言った。
 

「のりこ、ごんべぇさんには言えてママには言えない話?」

「その、と・お.り・・・ふふふ」

「ごんべぇさんに会ってからのりこは本当に明るくなったわ。いっそのことごんべぇさんのお嫁さんにしてもらわなくっちゃね。」

「ママったら、知らない!」
 

可南子がいたずらっぽくウインクした。

私のために遅くなった夕食の後に、のりこが部屋にやってきた。
 

「マモル君ね、とってもかわいかった。どちらかっていうと絵里子さん似かな? 最初はちょっと人見知りしたけどすぐになれてくれたわ。」

「絵里子さんにも会ったのかい?」

「もちろん。彼女がマンション近くのコーヒーショップに連れてきてくれたの。でも、今でもマスコミがあとを付け回すんだって。だから、これからもそう簡単には会えないけど・・・こんどね、ディズニーランドに一緒に行く約束してきたの。だから、ごんべぇさんもそのときは付き合ってね。」

「あぁ、いいよ。」

今日の出来事を楽しそうに話すのりこの目は輝いていた。
これが、自らの命を絶とうとしていたのりこなんだろうか・・・
 

「絵里子さんは、不自由していなかったかい?」

「そうね、かなりいやがらせを受けてるわ。マモル君も幼稚園に行っていないみたい。私・・・こんどの犯人、許せない。マモル君や絵里子さんにはなんの罪もないんだもの・・・悪いのはパパなんだから・・・パパの罪は私の罪として受けてゆくわ・・・でも、マモル君は・・・関係ないじゃない!」
 

私は、のりこに何も言ってやれなかった。しかし、私も決してうやむやにはしない、私のこの手で必ず挙げてやる。正義感ぶっているこの犯人を私も許せなかった。
 

「それから・・・近頃ママの様子が変なの。」

「どうした?」

「時々ふさぎこんでいて何か悩んでいるみたいで心配なの。」

「きっと疲れているんだよ・・・かわいそうに・・・」
 

わたしは翌日、いつものジョギングをこなし、いつも通り朝風呂に入り、いつものトマトジュースを飲み干して10時になるのを待った。


  3月9日
 

 この頃の私は、朝必ず30分ほどのジョギングで汗を流すことにしていた。
30分と言っても汗はたっぷりと出た。

のりこに見立ててもらったグレーのスエット、そして3本のラインの入ったジョギングシューズをはいて六本木の朝を走った。
白い息がうしろに流れてゆく。
体はとても軽かった。

狸穴坂を下ると左にホテルがある。
けだるい顔をした男女が二人出てきた。
女は陶酔したように男にもたれかかっている。
のりこによると都内でも有名なSM専門のホテルということだ。
角を右に曲がってしばらく走ると左にスエーデンセンターが見える。
そこを斜め右に一気に駆け上がりアマンドの前に信号待ちをした。
女や男をものにできずに夜を明かした若者やサラリーマン達が地下鉄の入り口に吸い込まれてゆく。
それを横目で見ながら横断歩道を渡った。
防衛庁を左に折れて坂を下る。
本当は乃木坂を過ぎて青山の方まで遠出したいのだがジョギングは30分と決めているので私は決して無理はしない。
帰ってくると、腕立て100回、腹筋100回とスクワット10回を10セットこなす。
そして私は朝風呂に入るのが好きだった。
記憶を失う前の私もきっと好きだったに違いない。
風呂から出ると必ずのりこがトマトジュースを用意してくれた。
たっぷりとレモンを搾り込んで一気に飲み干した。

麻生麻由美の電話番号を104で調べた。
留守電にここの電話番号を吹き込み、今日は3人のアマチュア無線家に会うことにした。

善山俊樹の家は世田谷の若林にあった。
自宅の庭にテレビ塔を小さくしたようなアンテナがそびえ立っていた。
善山本人は、痩せていかにも神経質そうでつっけんどんな男だった。
これがのりこの言う“オタク”なのかもしれない。

私は、TOKIO CITY NEWS記者として振る舞うことにした。
 

「君が例の無線を傍受した時のことを詳しく聞きたいんだけど・・・」
 

手帳を取り出して新聞記者を演じた。
 

「ま、本当は5.00で各局待機するのがルールなんだけどさ・・・」
 

善山は人の目を見て話さない。
 

「それで・・・?」

「5.62は無線仲間との呼び出しチャンネルなんだ。」
 

いちいち合いの手を入れないと話さない。
リズム感のない男だ。
 

「うんうんそれで・・・?」
 

こちらでリズムを作ってやることにした。
大サービスだ。
 

「あの日もいつものように仲間からの連絡を待ってたところだったんだ・・・」
 

私は深呼吸して一度自分の靴を見た。
これものりこが見立てたデザートブーツだ。
 

「うんうんそれで・・・?」

「そこにいきなりコールサインを使わない一方的な声をメリット5で受信したんで・・・」

「メリット5って?」
 

今度は話の腰を折られたので不機嫌な顔をしている。
 

「うんうんそれで?」

「それで、てっきりアンカバーだと思ったんだ・・・つまりアンカバーっていうのは無免許ってことなんだけど、だからクレームをつけたってわけ・・・こちらはJP1LAL・・・ジュリエット・パパワン・リマ・アルファ・リマ・・・5ポイント62ただいま使用中!ってね。そしたらそいつがこのまましばらく使わせくれって言うんだ。」

「どんな声だった?」

「男・・・少し落ち着きがなかった。」
 

もう一度聞いた。
 

「どんな声だった?」

「・・・ふつう。」
 

ボキャブラリーのない男だ。
 

「ふつうって・」

「ふつうって、ふつうだよ・・・あんたみたいに特徴のない声。」
 

特徴がないってことも特徴だって言ってやりたかったが思いとどまった。
 

「相手は・・・?」

「一方的にしゃべってた。」
 

今度は少しパターンを変えてみよう。
 

「ふむふむ・・・」

「たぶんモービル(車での移動局)だったんだと思うけど2〜3分で聞こえなくなったよ。」
 

疲れた。
後の二人もおおよそ同じような話でこれ以上の成果は期待できそうもなかった。
ただ、犯人が使っていた送信側のトランシーバーも、たぶんカローラに積まれていたものと同じTR2500程度のものだろうということ、つまり2.5Wの出力しかないのでせいぜい4〜5キロしか電波は飛ばないだろうということだった。

世間はどうか知らないが私は“オタク”は嫌いだ。
アマチュア無線なんてやっているやつはもっと嫌いだ。

私はむしろ近藤浩に興味があった。
近くの電話ボックスから田口に電話をかけた。
 

「もしもし高木です。今例の3人に会ってきたんだけど・・・特にこれといって興味ある話は聞けなかった。ただ、今日は後一人近藤にも会っておこうと思っているんだ。彼の勤め先を教えてくれないか?」
 

近藤は、新宿の証券会社に勤めていた。
そしていきなりけんか腰だった。
 

「いいかげんに絵里子のことは放っておいてやってくれよ!」

「いや、僕が興味を持っているのは・・・キミなんだけどな・・・さぞかし江渕のことは怨んでいたんだろうね?」

「江渕・・・?あいつは自分のことしか考えていない最低な奴だよ。たかが1億渋りやがって・・・」
 

吐き捨てるように言った。
 

「そうか・・・やっぱり渋ったか・・・で、どうやって出させたんだ?」

「それは・・・絵里子のこと世間にばらすって言ったんだよ。」

「でも、バレたのはどうして?」

「アウトフォーカスに出たからさ。」

「キミがバラしたんじゃないのか?」

「あれは、オレじゃない。だってそうだろう?オレは絵里子を傷つけるつもりじゃなかったんだから・・・」

「今でも絵里子と結婚を考えているのか?」

「そんなことあんたに関係ないだろ。悪いけど忙しいんだ。帰ってくれ。」
 

私は、じっと考えていた。

確かに江渕のことは憎んでいても絵里子を傷つけたいとは思わないだろう。
それは、近藤だけじゃない。
弟の修もそうだ。
しかし、江渕の名前が公表されることが予想外だったとしたら・・・?
絵里子のことをエサにして目的がはじめから江渕の1億だったとしたら・・・?
あながちあり得ないことではない。
 

「その金ぴかの時計、なんて言うんだ?」

「・・・オーディマピゲ」

「ふーん・・・趣味が悪いな。」
 

近藤は目を丸くして鼻の穴を一杯に膨らましていた。

マンションに戻ったのは、夕方の5時を過ぎていた。

のりこの機嫌がなぜか悪かった。
 

「麻生さんて・・・だあれ?」

「麻生さん・・・誰だろう・・・男の人?」

「とぼけちゃって・・・ここに電話くださいって・・・6時まで会社にいるからって。」
 

のりこの視線が痛かったが無視した。

脱ぎかけていたジャケットに再び袖を通してとりあえずマンションを後にした。

麻生麻由美とは青山のクリスというバーで待ち合わせた。
約束の7時を5分過ぎていた。
中は全体的に少し暗かったが照明が効果的に雰囲気を盛り上げていた。
あたりを見回すと30前後のいかにも都会的な女性がこちらに手を上げた。

手がきれいだった。
マニュキアは透明でさりげなく化粧も薄く自然だったが着ているスーツは大人の女を感じさせた。
 

「私も今きたところ・・・えっと、私はドライマティーニをお願い・・・あなたは?」

「じゃ僕は・・・ギムレット。フレッシュライムをたっぷりと搾ってくれ。ジンはタンカレーで・・・」

「ギムレット? あなたが?・・・めずらしいわね。」

「ちょっとフィリップ・マーローを気取ってみたくってね。ところでさ・・・君と僕の関係を教えてくれないか?」
 

私はテーブルに映った彼女の反応を見ていた。
 

「ね・・・それ冗談でしょ?」

「ごめん・・・冗談じゃないんだ。僕は高木圭吾、32才・・・目黒区柿の木坂在住、TOKIO CITY NEWS政治部記者・・・分っているのはこれだけ。実は2月5日に大島でちょっとした事故に遭ってね。それ以来記憶喪失なんだ。」

「事故って?大丈夫なの?」
 

彼女の場合も驚きは他のみんなと同じだった。
私があまりにも素っ気なく言ったので嘘かもしれないとある部分では疑っているようだったが・・・
 

「そういうことって、本当にあるのね・・・でも、それなら確かにつじつまが合うわ。」
 

ひとりで納得したように一度頷いてからやにわに私の方を振り返った。
 

「だってあなたはもう何ヶ月も私に会うことを拒んでいたはずなのに、こうして会いに来てくれた・・・変よね。それに今までのあなたなら、1時間は私を待たせたわ。」

「どうして僕は君を拒んでいたんだろう?」

「それは、こっちが聞きたいわ。あの頃のあなたは何かに取り憑かれたようだった。いらいらしてて近づけなかった。毎日毎日江渕を追いかけて、私のこと見向きもしなくなって、電話をかけても出てくれなくなった・・・」
 

彼女は片手で長い髪をかきあげた。
 

「・・・でも、今のあなたはとても懐かしい感じがする。」
 

本当に懐かしそうだった。
 

「取り憑かれていたものから解放されたみたいに・・・穏やかな顔つきをしている・・・」

「そう・・・今はなんにも取り憑かれていない・・・君には随分と迷惑をかけたようだね・・・どうもこのまま記憶が戻らない方がいいみたいだ・・・」

「このままでも、あなたが私のところに戻らないのは同じことだわ。」
 

麻由美は、ドライマティーニを一気に飲み干しバーテンにお代りを告げた。
 

「あなたは、江渕を最後まで追い切れなかった。あんなに荒れているあなたを見ているのはとてもつらかったわ。私ではどうすることもできなかったの・・・そうだ・・・じゃ、まだ西田さんにも会っていないのね?」

「西田・・・?」

「アウトフォーカスの記者・・・あなたの高校時代からの親友よ。とても心配していたわ・・・えっと・・・これが連絡先。」

「アウトフォーカス・・・?」
 

記憶を失う前の私の生活はとても刺激に満ちている。
高木は非常に興味のある男だ。
 

「ありがとう、早速会ってみるよ。ところで・・・君のこともっと知りたいな。」
 

私は、少しときめいていた。
彼女と会ったときと、きっと同じように・・・
 

「ふふ、タイムマシンで5年前に戻ったみたい。私は、麻生麻由美・・・もう30・・・外資系の広告代理店クレイ社でクリエイティブディレクターをしているの。そして高木圭吾の元・・・恋人。」

「へぇ・・・広告代理店か。華やかな職場じゃないか・・・で、どんなことをしているんだい?」

「あらあら、私のことなんて全然気にも止めなかった人が・・・ま、いいわ。プリティギンブル社のラバーズというシャンプーを主に担当しているの。でも、世間が思っているほど華やかじゃないのよ・・・というか・・・むしろ地味・・・」
 

麻由美は、マティーニをグルグルまわしていた。
 

「コンセプトテストの繰り返し・・・コンスーマーのニーズと商品アイデアの接点を探ってインサイトで結びつける・・・簡単なことじゃないわ。早い話が“石橋をたたいて、粉々にしてちゃんと整地してから渡る”って感じかな・・・なのに会社は賞を取ることを求める・・・消費者の心をつかまないで審査員の心をつかめって言うの・・・矛盾しているって思わない?」

「はは・・・けっこう難しい言葉が飛び交う職場なんだね・・・」

「あ、ごめんなさい・・・私ったらいつのまにか愚痴っていたのね・・・なんだか、はずかしい。」

「いや、まったく未知の世界の話だから面白いよ。」
 

話ははずんだ。
彼女は生き生きとしていた。
おたがいにときめいていた頃のはじめてのデートのこと、はじめてのキスのこと・・・5杯目のギムレットを飲み干したときに私たちは店を後にした。

私たちは、彼女のマンションに向かった。
二人とも気持ちよく酔っていた。
彼女の部屋は15階建ての15階にある20畳ほどのワンルーム、フローリングでダブルベッドのマットだけでベッドメーキングしてあった。
すべてが床置きになっている。
大型のテレビ、ミニコンポ・・・丸いライト・・・ただそれだけ・・・家具は何もない。
ベランダに出ると東京湾が見えた。
2脚の椅子が並んで海の方を向いていた。
僕たちはそこに座り、東京湾を往来する船を眺めながらシャンパンをあけた。
それはとても口当たりが良く飲みやすかった。
僕は、ピンク色のラベルに書いてある名前が読めなかった。
 

「これおいしい・・・」
 

読めないことがわかったのか、彼女が言った。
 

「ドンペリって言うの・・・」

「またバーに行くことがあったら今度はギムレットじゃなくこれにしよう・・・」

「ふふ・・・私が一緒のときだけにしておいたほうがいいよ。」

「えっ?」

「プリティギンブル社にかんぱーい!」
 

二人とも現実とは違う心地よい夢の中にいた。

彼女の腕が私の首にまとわりついてきた。
唇が私の唇をむさぼり、首を這い・・・しかし残念ながらそれ以上のことは覚えていない。

 



  3月8日
 

「ゴンベェさん、田口です・・・今日、港署に赴任しました。」
 

田口刑事と会うのはおよそ1ヶ月ぶりだった。
のりこの精一杯のごちそうが田口を迎えた。
 

「背広姿の田口さんもなかなか素敵よ。」

「おいおい、のりこちゃん・・・」

「ははは、照れてる田口さんもまたまたステキ。」

「ゴンベェさん、なんとか言ってくださいよ。」
 

田口刑事のウエルカムパーティはとても盛り上がり、のりこも可南子も本当に楽しんでいた。
 

「ところで、田口さんはずっと大島で育ったの?」
 

デザートのザッハトルテを配りながらのりこが尋ねた。
 

「東京の向島で生まれたんだ。親父がやっぱり警察官で、僕が小学校の5年生の時に大島に転勤になってそれ以来・・・ま、だから大島で育ったようなものだね。」

「お父様は、今でも健在?」

「いや、5年前に・・・。正義感が強くて、バカ正直で不器用な親父だったけど・・・好きだった・・・親父の口癖はね“憎いのは犯人じゃない、何がそうさせたのかそれを憎め、罪を憎め、心から悪いやつなんかいない、人間として扱え・・・”」

「すばらしいお父さんじゃないですか・・・テーブルの上にあったお金を盗んだやつが悪いのか・・・無造作にテーブルに現金を置いてそんな気持ちにさせたことが悪いのか・・・考えさせられるね。」
 

田口が、警察官を継いだのもとても良く分る気がした。
 

「はい、だから犯人の検挙率は低いんです。ほとんど自首させていましたから・・・だから万年平巡査でした。」

「で、新米刑事の担当は?」
 

何の意味もなく聞いたつもりだった。
 

「あ、いや・・・まだそのう・・・新任でありまして・・・研修やなにかと忙しく・・・あっ、もうこんな時間・・・そろそろ失礼しないと・・・」

「田口さん、まだいいじゃない。」

「いやほんと、もうおいとましないと・・・のりこちゃんの手料理とってもおいしかった。また、ごちそうになりにきてもいいかな?」

「もちろんよ。」
 

田口の仕草に不自然さを感じた私は、駅まで送ることにした。

道すがらそれとなく聞いてみた。
 

「守秘義務があるので、詳しくは言えないんですが・・・例の1億円の誘拐事件が私の担当なんです。」

「えっ君も?」

「・・・君もって・・・?」

「いや・・・つまり僕もってこと・・・僕の場合は正確に言うと、江渕の汚職事件の方・・・TOKIO CITY NEWSで江渕を追っていたらしいんだ。」

「おどろいたなぁ・・・そうなんですか・・・」

たぶんふたりとものりこと可南子のことを考えていた。

「田口さん、折り入って頼みがあるんだけど・・・」

「なんでしょうか・・・?」

「迷惑でなければ、個人的に君の手伝いをさせてもらえないだろうか?」

「それはまたどうして・・・?」

「僕がいつか高木圭吾に戻ったとき、TOKIO CITY NEWS記者としてまた江渕を追いかけることになると思うんだ。江渕を追いかければ追いかけるほど、のりこと可南子を苦しめることになりそうで・・・それよりも誘拐事件を早く片付けて、江渕母娘を世間の好奇の目から解放させてやりたいと思うんだ。」

「よく分ります。僕もそうですから・・・いいでしょう。でも、くれぐれもこのことは内密にお願いします。あっそうそう、これを渡すの忘れていました。」
 

私の札入れと免許証、そしてキーホルダーにTOKIO CITY NEWSの記者手帳だった。

札入れには1万円札が10枚と千円札が6枚、アメックスのゴールドカードほかクレジットカードと銀行のキャッシュカードが数枚、キーホルダーには全部で5つの鍵がぶら下がっており、その内の一つは車の鍵らしかった。
そして手帳には几帳面な文字でぎっしりとなにやら書き込んであった。

田口と私は神谷町の方へ向かわずに六本木に向かって歩いていた。
そして交差点手前で見つけたケネディハウスというライブハウスに入った。
とても騒々しい店だったがこちらにはかえって好都合だった。
 

「僕は、ギムレットを・・・必ずフレッシュライムでジンはタンカレーで。」
 

僕は田口と同じものにした。
なんでもフィリップマーローを気取っているらしいのだが、なんのことか僕には分らなかった。
 

「さっそくだけど事件のあらましを教えてくれないか。」
 

こんなこと大声で話すことではなかったが、音がうるさくて耳を近づけても聞こえないほどだった。
 

「事件が起きたのは、1月31日の日曜のことでした。まず、江渕の愛人である林絵里子から110番が入りました。もちろん、その時は絵里子が江渕の愛人だったなんて知る由もありません。警察はお決まり通りに逆探知を試み一方では報道管制を敷き万全を期して臨んだのです。そしてその犯人からの要求額が1億円。警察は驚きました。どうみても林絵里子に1億円は不釣り合いです。」

「そこで江渕譲の登場か・・・」

「そうです。絵里子は江渕に頼るしかなかったのです。」

「ということは・・・犯人は、江渕が林絵里子の愛人であったことを知っていたことになる。」

「憶測ですが、そうだと思います・・・しかし、それを知っていたのはごく一部のものに限られています。世間に二人の関係が知れ渡ったのは事件発生から9日後・・・2月9日発売のアウトフォーカスによる暴露記事でした。これは大スキャンダルでした。効果覿面(てきめん)というやつです。世間はあろうことか犯人の方に拍手を送ったのですから。」
 

確かに世間からすれば小気味のいい出来事だ。
江渕事件はどうせうやむやになる。
犯人は現代版のネズミ小僧だ。
 

「それで、金の受け渡し方法は?」

「これがまた見事なんです。2月2日3度目の電話で犯人が指定してきたのは新宿野村ビル横の都営駐車場でした。そろそろ暗くなりかけていたのですがまだまだ人通りも多く、周りからの見晴らしもよくて警察は一切手を出せない状況だったようです。番号が不揃いの1万円札の束が100個入ったボストンバッグを持った絵里子は、Aの15番の駐車スペースに行きました。そこで予期せぬことが起こったのです。絵里子はそこで紙袋を拾いそのまま出口近くの車に乗り込み走り去ってしまったのです。」

「何が起ったのです?」

「指定された場所には紙袋が置いてありました。その中には車のキーとメッセージが入っていました。そしてこう書かれてあったのです。“出口近くのCの8番の白いカローラに乗れ。警察に知らせると子供の命はない”・・・と」

「しかし・・・」

「そう、それだけでは金は受け取れない・・・しかし、犯人はまんまと1億円をせしめてしまいました。絵里子にはトランシーバーで直接指示を出していたのです。カローラの中には・・・もちろん盗難車ですが、トランシーバーが置かれていたんです。」
 

手に汗がにじんできた。
 

「車の中にはさらに千円札が2枚と5百円硬貨が2枚そして百円硬貨が1枚置かれていました。これはパーキング代と高速代に使われました。そして、トランシーバーから一方的に犯人からの指示が聞こえてきました。あわてるな・・・ゆっくり走れ・・・右に曲がれ・・・高速に乗れ・・・30キロを保て・・・60キロにスピードを上げろ・・・と、いうふうに。」

「30キロ・・・?」

「警察が追ってこないことを確かめるためにです。つまり高速を30キロなどという低速で尾行すれば犯人に知られてしまいます。警察が関与していることが分ればその時点でこの計画を中止し子供は危険にさらされるでしょう。しかしその必要はありませんでした。とっくに見失っていましたから。そして中央自動車道に入った絵里子は調布手前深大寺の高速バス停で指示通り車を停め陸橋からつり下げられたロープにボストンバッグを引っ掛けたという訳です。絵里子はその間、警察に知らせることができませんでした。いや、知らせるつもりはなかったのかもしれません。子供は無事に戻ったのですから。」

「どうやって戻ったのです?」

「バス停のイスに居場所の書いたメモが置かれていました。」

「その後の検問は?」

「そう・・・検問は直ちに実施されました。しかし、検問にはまったくひっかからなかったのです。これは未だに謎です。絵里子がバッグを手放したのが19時30分頃、あの一帯で検問を行ったのが遅くとも15分後ですから・・・犯人が車で移動していたのは確実なんですが・・・」
 

私は、大きくため息をついた。確かに見事だった。
 

「これは、単独犯だろうか?」

「その辺は何とも・・・」

「しかし、犯人は結構手がかりを残しているように思えるけど・・・例えば、トランシーバーとか・・・紙袋・・・メモ・・・そして当のまもるくん。」

「はい、トランシーバーは、犯人からバッグに一緒に入れるよう指示があって現物は手元に残っていませんが、その後の調べでケンウッドのTR2500らしいということは分っています。周波数は144MHZ帯で通常“いっちょんちょん”と呼ばれています。この周波数を使うためには国家試験にパスしなければなりませんが、電話級のアマチュア無線技師の資格でよく、これは小学生でも持っていますから、こちらから当たるというのは至難の業です。それに免許を持っていないと買えないという訳ではありませんから、そうなるともうお手上げです。しかし、その後の通報で使用チャンネルは分っています。えーっと・・・あ、これだ145.62MHZです。」

「えっ他人が聞いていた?」

「そうなんです。アマチュア無線は周波数さえ合っていれば誰でも聞くことができるんです。車は移動していましたからたまたま他の人がそのチャンネルを使っているところへ飛び込んで行ったということもあり得ますし、特に東京は込み合っていましてみんなが入り乱れて交信しているというのが実情なんです。」

「それで警察の捜査はどこまで進んでいるんだろう?」

「それが思うように進んでいません。まず絵里子と江渕の関係を知っていた人物は今のところ分っているのは3人です。まず、絵里子の母親と弟の修です。修は工業高校を卒業した後、2年前から稲城市の自動車工場で働いていて寝たきりの母親の面倒をみています。事件当日のアリバイは白でした。そしてもうひとり、絵里子と高校時代につき合っていた近藤浩です。私生児を産んだ絵里子に同情して結婚を申し込んでいたそうです。彼のアリバイに関してはまだ確認がとれていません。そしてカローラは盗難車・・・駐車場は無人でパーキングチケットを発行するタイプのものでしたので目撃者は無し。メモもありきたりのワープロで打たれたものでした。」

「さて困ったな・・・まず無線を傍受した人たちに会ってみたいんだけど。」

「そうですね、明日彼等のリストを用意しておきます。」
 

田口と極秘の関係を結んで、別れたのは11時を過ぎていた。
マンションに戻り上着をぬごうとしたその時に、柿の木坂のマンションで見つけた封書がそのままだったことに気がついた。
世田谷区若林・・・麻生麻由美
 

“この頃のあなたは、私の手の届かないところに行ってしまったみたい。それでも私はあきらめきれないの・・・取り憑かれたように無茶をするあなたが心配です”
 

それはきれいな文字だったが神経質で感情的だった。

おかげで明日からは忙しくなりそうだった。


  3月4日
 

 私は、10時にTOKIO CITY NEWSの玄関に着いた。
1階受付で政治部のある階を聞いた時その受付嬢は一瞬不思議そうな顔をしたがすぐもとのすました顔に戻り7階だと教えてくれた。
政治部は、エレベーターを下りて右に曲がった突き当たりにあった。
私は一度ゆっくり深呼吸してドアを押し開けた。

一瞬ざわめきが止まった。

モクモクとした煙の中の15人ほどの人たちが私の顔を宇宙人でも見るかのように見ていた。
 

「あの、私は高木と申しますが・・・」
 

確かにこれは変だった。
そして静寂が再びざわめきに変わった時
 

「高木!」
 

窓際に座っていた男が立ち上がって叫んだ。

その男の机の上には、“編集長 奥村”というネームプレートが置かれていた。

私はその男のところに歩み寄った。

無精髭を生やし頭はぼさぼさで灰皿には吸い殻が山のようになっている。
そして新たに1本タバコに火をつけて言った。
 

「昨日、警察から確認の電話があって大体の話は聞いた。しかし、災難だったな・・・」
 

そこでその男は、私が記憶喪失だということに気がついた。
 

「あ、俺は奥村。お前の上司だ。」

「いろいろとご迷惑をおかけしました。」

「いや、いいんだ・・・しかし、記憶喪失ということは・・・その・・・自分のこと、どこまで覚えているんだ。」

「はっきり言って、何もおぼえていないと言った方がいいでしょう。」
 

何か人ごとのようでおかしかったが、今の私にとって高木圭吾は他人だった。
 

「ま、そこに座れ。」
 

編集長の机の前に置かれた来客用のイスに腰を下ろした。
 

「お前は一月の末だったと思うが、2週間の休暇を取ると言ってそのままいなくなったんだ。あの頃のお前は結構落ち込んでいたから・・・たまには骨休めもいいだろうと思って許可したんだが・・・」

「それまで、僕はここでなにをしていたんでしょうか・・・?」

「ここでは江渕の汚職事件を担当していた。」

「江渕の・・・?」
 

ひょっとして、大島ではのりこを追っていたのだろうか?
 

「そうだ、結構いいところまで追いつめていたんだ。事件そのものがお前のスクープだったし・・・オレとしては、一刻も早く現場に復帰してほしいんだが・・・しかし、記憶喪失じゃあな・・・仕方がないな。それに今じゃ世間は、例の誘拐事件の方が興味あるみたいだし・・・」

「すみません。とにかく今の私は職場復帰よりもまず社会復帰をしなければならない状況です。」

「そうだな・・・」
 

力なくそう言った奥村は、再び思いついたように・・・
 

「よし、わかった。とにかくしばらく休んだ方がいい。会社には休職ということで俺から報告しておくから、診断書だけ用意しておいてくれ。」

「感謝します・・・それともうひとつ、社内で私と一番親しかった人物を教えていただきたいのですが・・・」

「あぁ、それならカメラマンの松永だろう。今日はもう取材に出かけてしまったが、帰ったら電話させよう。」
 

私は、連絡先の電話番号を教え丁寧に頭を下げた。

 

 会社を出た後、私はのりこと落ち合って一緒に柿の木坂に向かった。
中目黒から東横線に乗り換え都立大学に着くまでの間、のりことはほとんど言葉を交わさなかった。

私は、窓を流れる景色をじっと見ていた。通勤途中に何度も見ているはずだった。

都立大学駅に着くと駅北口を大学の方へ・・・目黒通りを渡った。
学生らしき若者とはひとりも会わなかった。
右手に日本蕎麦屋があった。
のりこによるとこの辺では結構有名な蕎麦屋だそうで、ひょっとして私も何度か来ているに違いないと感じた。
 

「ゴンベェさん・・・結婚しているのかなぁ・・・?」
 

のりこが唐突に言った。
 

「えっ」

「もし、奥さんがいたらびっくりするだろうね・・・急に現れて。」

「そうか・・・そんなこと考えても見なかったな・・・もし、いたらどうしよう・・・」
 

駒沢通りの柿の木坂交番を過ぎると白いマンションが見えて来た。
管理棟を中心に両脇に2棟建っている。

管理棟の管理室で事情を話して鍵を借りた。

管理人が私のことを覚えていてくれたのでサインをするだけで意外に簡単に借りることができた。

柿の木坂スカイハイツフォレストコートの6階に部屋はあった。

はたしてどんな高木圭吾に会えるのだろうか。
少しドキドキしてきた。

新聞受けには、全く何も入っていなかった。
ドアの右横にメータボックスがあった。
開けてみると二つ折りにされた新聞がきちんと積まれていた。
 

「結構しっかりとした管理人さんね。」
 

と、のりこが言った。

インターフォンを押したが返事はない。
のりこの顔を見た。

鍵を差し込んだ。

そして、ゆっくりとドアを手前に引いた。

カーテンの隙間から漏れる一筋の光線が部屋の一部分を紹介してくれた。

意外にきれいだった。
 

「高木さんて、几帳面な人みたいね。」

「そうみたいだね・・・」
 

リビングは10畳ほどの広さで床置きの大型テレビとミニコンポを中心に全体的には黒でコーディネートされていた。
 

「これ、コードレスフォンにしては少し変ね。」
 

確かに電話のようだったが・・・
 

「ほら、見て!CDがこんなにたくさん。」

「どんなジャンルが好みなんだろう?」

「そうね・・・」
 

そしてプーっと吹き出した。
 

「ごめんなさい・・・だって節操がないんだもん。モーツアルトがあると思えば、オフコースがあるし・・・ほら、見てこれ!」

「由紀さおり・・・誰?」

「歌謡歌手であり・・・童謡歌手・・・ハハハ」

「そんなに笑っちゃかわいそうだよ・・・」

「だって・・・だって・・・」
 

腹を抱えて笑っている。
息が苦しそうだ。
 

「だって・・・何?」

「だって、ゴンベェさんのことだよ。」

「あ、そうか・・・はは。」
 

リビングはカウンターでキッチンと繋がっていた。
 

「お茶をいれようか・・・インスタントだけどコーヒーがあるわ。」

「そうだね。」
 

リビングの手前のドアを開けると、そこは寝室だった。

ダブルベッドの他は、ぎっしりと本の詰まった本棚が3方の壁を埋め尽くしていた。
本もまた節操がなかった。
科学雑誌、映画のパンフレット、インテリア雑誌、それとありとあらゆる単行本・・・

アルバムは、本棚の右下隅にあった。
そこには、忘れてしまった私が一杯詰まっていた。
何か懐かしかった。
まだ小さな私を抱いた母親の顔をかすかに覚えている。
何かが・・・何かこの喉の当たりに引っかかっているものが・・・もう少しで思い出せそうな気がしていた。
 

「あっ、ダブルベッド!」
 

手にコーヒーを持ったのりこがいたずらっぽい顔をして立っていた。
 

「そ、そういえばそうだね・・・広々としていて心地良さそうだよね・・・」

「何赤くなってんの?」

「ほら、見てごらんこのアルバムを・・・高木って男・・・まるで女っ気がない・・・」

「わかった、わかった・・・さ、コーヒー」

「ったく、大人をからかって・・・」

「私、ゴンベェさんが思っているよりずっと大人なんだからね。」
 

プイッとふくれたのりこは、まだまだ子供だったが確かに初めてあった頃よりずいぶんと大人びてきていた。

しばらくコーヒーブレイクした私たちが次にしたことは、郵便受けにたまっていた郵便の整理だった。
ほとんどがダイレクトメールとクレジット会社からの請求書だったが、一通だけ女性からの手紙を見つけた。

麻生麻由美・・・のりこに気づかれないようにそっと上着の内ポケットにしまった。
 

「そろそろ帰ろうか・・・」
 

当面の着替えをバッグに詰め込んで港区のマンションに帰ってきたのは4時を過ぎていた。
 

「ゴンベェさん、3時頃だったかしら・・・松永さんという方からお電話があって折り返し連絡をくださいってことでしたわよ。」
 

可南子から、猫のイラストの入ったメモ用紙を受け取った。

 

私たちは、TOKIO CITY NEWS近くの乃木坂茶館で落ち合った。
 

「いやぁ高木さん、本当に心配していたんですよ・・・あ、そうか僕松永英二と言います。つまり、高木さんとはずっとコンビを組んでいたんです・・・ほら、江渕事件・・・二人で追っていた・・・覚えていませんか・・・?」
 

松永は、同僚との奇妙な会話に戸惑っている様子だった。
 

「江渕事件を追っていたんだね・・・?」

「はい、あれはそもそも高木さんのスクープでしたから・・・でも所詮この手の政治がらみの事件はうやむやになってしまうんです・・・とにかく政治家の先生方も狸ですから、結局みんな秘書のせいになってしまって・・・」

「つまり、この事件は終わったってこと?」

「いえ、必ずしもそういうことではありません。私もそうですが、高木さんも江渕をとことん追いつめるつもりでいたはずです。・・・ま、こんなことになってざんねんですが・・・でも、待ってますよ、あなたが早く戦列に復帰することを。」
 

松永の目は社交辞令ではなく、本気だった。
 

「ありがとう・・・江渕事件は、僕にとっても自分探しの原点のような気がしているんだ。」

「そうですね、高木さんのためにも逐一報告しますよ。」
 

そのあと高木自身のことをいろいろと聞いた。
だんだんと自分のことが分ってくるに従って高木圭吾に興味を覚えてきた。
今の自分からは到底想像できない実際の高木圭吾に・・・しかしその反面、江渕との関わりがのりこや可南子にどう影響を及ぼすのか気がかりだった。

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