1988年2月9日
 

 のりこは、目が大きくて鼻がかわいかった。

口は小さめですぐ横に小さなほくろがあった。

誰かアイドル歌手に似ているような気がしたが・・・もちろんそれが誰であったかは思い出せなかった。
 

「のりこちゃん、テレビをつけてくれないか?」
 

自分が誰であるかわからないという苛立ちから逃れるために・・・そして、きっと以前は普通に見ていたに違いない番組に少しでも自分を見つける手がかりがあるかも知れないと期待していた。

ちょうどそのときやっていたのはワイドショー番組だった。
どうやら事件らしくてマイクを持ったレポーターたちが大勢でひとりの男をとり囲んでいる。

その男は、就職情報誌をめぐる汚職事件の中心人物で愛人に生ませた3歳の男の子を誘拐され、まんまと1億円を奪われたというのだ。
 

“1億円を用意したのは江渕さん、あなただというのは本当ですか?”

“マモル君は、あなたの子ですよね?”

“このアウトフォーカスの記事は事実ですか?”
 

「イヤな事件ね・・・」
 

のりこは、そう呟いてテレビを消してしまった。
 

「どうした・・・大丈夫か?」

「えっ、何が?・・・ね、リンゴむいてあげるね。」
 

私は、リンゴをむいているのりこをずっと眺めていた。

この子は、きっといい暮らしをして来たに違いない。
でも大人と子供の狭間で何か苦しんでいるようだった。

本当だったら男の子に夢中になり、おしゃれに興味をもつ年頃だろうに・・・。

リンゴの酸っぱさが口の中一杯に広がり何か懐かしかった。
 

「のりこちゃん、ちょっと外に出てみたいんだけどつきあってくれないか?」
 

のりこは、もちろんというように微笑んだが、すぐに不安な表情になった。
 

「平気さ、僕のは病気じゃない・・・ただの記憶喪失なんだから・・・」
 

大島は、椿が満開だった。

病院は、丘の上に建っていて眼前に海が広がっていた。

私たちは、そのキラキラと銀色に輝く海を見下ろせるベンチに腰を下ろした。
 

「まったく何も思い出せないの?」
 

海に顔を向けたままため息をつくようにのりこが言った。
 

「うん・・・でも、そんなに心配することのほどでもないよ。ただ、頭が少しパニックを起こしているだけなんだ。だって、あの花が椿だということもわかっているし、ここが大島であることも・・・さっきのりこちゃんがむいてくれたリンゴをかじった時も何か懐かしい感じがよみがえって来たし・・・ちょっとしたキッカケがあればすべて思い出せるような気がしてる・・・それと、田口さんが言うように、僕は東京に住んでいたんじゃないかと思う・・・もちろん根拠はないけどね・・・。」
 

私は、本当にそう考えていた。

そして、ここを出たらとりあえず東京に行ってみようと・・・。
 

「のりこちゃん、君はこれからどうするつもりなんだ?」
 

のりこは黙っていた。
 

「何があったのか無理に聞きだすつもりはないけど・・・ただ、ご両親が心配しているんじゃない?・・・いつまでも僕の看病をさせる訳にはいかないし・・・もし、本当に償いをしたいのなら・・・家に帰るんだ。」

「わかってる・・・わかってるけど・・・」
 

苦しんでいた。
小さな胸が何か大きな力で傷つけられているようだった。

太陽が沈もうとしていた。
のりこの顔が夕焼け色に染まっていった。