3月9日
 

 この頃の私は、朝必ず30分ほどのジョギングで汗を流すことにしていた。
30分と言っても汗はたっぷりと出た。

のりこに見立ててもらったグレーのスエット、そして3本のラインの入ったジョギングシューズをはいて六本木の朝を走った。
白い息がうしろに流れてゆく。
体はとても軽かった。

狸穴坂を下ると左にホテルがある。
けだるい顔をした男女が二人出てきた。
女は陶酔したように男にもたれかかっている。
のりこによると都内でも有名なSM専門のホテルということだ。
角を右に曲がってしばらく走ると左にスエーデンセンターが見える。
そこを斜め右に一気に駆け上がりアマンドの前に信号待ちをした。
女や男をものにできずに夜を明かした若者やサラリーマン達が地下鉄の入り口に吸い込まれてゆく。
それを横目で見ながら横断歩道を渡った。
防衛庁を左に折れて坂を下る。
本当は乃木坂を過ぎて青山の方まで遠出したいのだがジョギングは30分と決めているので私は決して無理はしない。
帰ってくると、腕立て100回、腹筋100回とスクワット10回を10セットこなす。
そして私は朝風呂に入るのが好きだった。
記憶を失う前の私もきっと好きだったに違いない。
風呂から出ると必ずのりこがトマトジュースを用意してくれた。
たっぷりとレモンを搾り込んで一気に飲み干した。

麻生麻由美の電話番号を104で調べた。
留守電にここの電話番号を吹き込み、今日は3人のアマチュア無線家に会うことにした。

善山俊樹の家は世田谷の若林にあった。
自宅の庭にテレビ塔を小さくしたようなアンテナがそびえ立っていた。
善山本人は、痩せていかにも神経質そうでつっけんどんな男だった。
これがのりこの言う“オタク”なのかもしれない。

私は、TOKIO CITY NEWS記者として振る舞うことにした。
 

「君が例の無線を傍受した時のことを詳しく聞きたいんだけど・・・」
 

手帳を取り出して新聞記者を演じた。
 

「ま、本当は5.00で各局待機するのがルールなんだけどさ・・・」
 

善山は人の目を見て話さない。
 

「それで・・・?」

「5.62は無線仲間との呼び出しチャンネルなんだ。」
 

いちいち合いの手を入れないと話さない。
リズム感のない男だ。
 

「うんうんそれで・・・?」
 

こちらでリズムを作ってやることにした。
大サービスだ。
 

「あの日もいつものように仲間からの連絡を待ってたところだったんだ・・・」
 

私は深呼吸して一度自分の靴を見た。
これものりこが見立てたデザートブーツだ。
 

「うんうんそれで・・・?」

「そこにいきなりコールサインを使わない一方的な声をメリット5で受信したんで・・・」

「メリット5って?」
 

今度は話の腰を折られたので不機嫌な顔をしている。
 

「うんうんそれで?」

「それで、てっきりアンカバーだと思ったんだ・・・つまりアンカバーっていうのは無免許ってことなんだけど、だからクレームをつけたってわけ・・・こちらはJP1LAL・・・ジュリエット・パパワン・リマ・アルファ・リマ・・・5ポイント62ただいま使用中!ってね。そしたらそいつがこのまましばらく使わせくれって言うんだ。」

「どんな声だった?」

「男・・・少し落ち着きがなかった。」
 

もう一度聞いた。
 

「どんな声だった?」

「・・・ふつう。」
 

ボキャブラリーのない男だ。
 

「ふつうって・」

「ふつうって、ふつうだよ・・・あんたみたいに特徴のない声。」
 

特徴がないってことも特徴だって言ってやりたかったが思いとどまった。
 

「相手は・・・?」

「一方的にしゃべってた。」
 

今度は少しパターンを変えてみよう。
 

「ふむふむ・・・」

「たぶんモービル(車での移動局)だったんだと思うけど2〜3分で聞こえなくなったよ。」
 

疲れた。
後の二人もおおよそ同じような話でこれ以上の成果は期待できそうもなかった。
ただ、犯人が使っていた送信側のトランシーバーも、たぶんカローラに積まれていたものと同じTR2500程度のものだろうということ、つまり2.5Wの出力しかないのでせいぜい4〜5キロしか電波は飛ばないだろうということだった。

世間はどうか知らないが私は“オタク”は嫌いだ。
アマチュア無線なんてやっているやつはもっと嫌いだ。

私はむしろ近藤浩に興味があった。
近くの電話ボックスから田口に電話をかけた。
 

「もしもし高木です。今例の3人に会ってきたんだけど・・・特にこれといって興味ある話は聞けなかった。ただ、今日は後一人近藤にも会っておこうと思っているんだ。彼の勤め先を教えてくれないか?」
 

近藤は、新宿の証券会社に勤めていた。
そしていきなりけんか腰だった。
 

「いいかげんに絵里子のことは放っておいてやってくれよ!」

「いや、僕が興味を持っているのは・・・キミなんだけどな・・・さぞかし江渕のことは怨んでいたんだろうね?」

「江渕・・・?あいつは自分のことしか考えていない最低な奴だよ。たかが1億渋りやがって・・・」
 

吐き捨てるように言った。
 

「そうか・・・やっぱり渋ったか・・・で、どうやって出させたんだ?」

「それは・・・絵里子のこと世間にばらすって言ったんだよ。」

「でも、バレたのはどうして?」

「アウトフォーカスに出たからさ。」

「キミがバラしたんじゃないのか?」

「あれは、オレじゃない。だってそうだろう?オレは絵里子を傷つけるつもりじゃなかったんだから・・・」

「今でも絵里子と結婚を考えているのか?」

「そんなことあんたに関係ないだろ。悪いけど忙しいんだ。帰ってくれ。」
 

私は、じっと考えていた。

確かに江渕のことは憎んでいても絵里子を傷つけたいとは思わないだろう。
それは、近藤だけじゃない。
弟の修もそうだ。
しかし、江渕の名前が公表されることが予想外だったとしたら・・・?
絵里子のことをエサにして目的がはじめから江渕の1億だったとしたら・・・?
あながちあり得ないことではない。
 

「その金ぴかの時計、なんて言うんだ?」

「・・・オーディマピゲ」

「ふーん・・・趣味が悪いな。」
 

近藤は目を丸くして鼻の穴を一杯に膨らましていた。

マンションに戻ったのは、夕方の5時を過ぎていた。

のりこの機嫌がなぜか悪かった。
 

「麻生さんて・・・だあれ?」

「麻生さん・・・誰だろう・・・男の人?」

「とぼけちゃって・・・ここに電話くださいって・・・6時まで会社にいるからって。」
 

のりこの視線が痛かったが無視した。

脱ぎかけていたジャケットに再び袖を通してとりあえずマンションを後にした。

麻生麻由美とは青山のクリスというバーで待ち合わせた。
約束の7時を5分過ぎていた。
中は全体的に少し暗かったが照明が効果的に雰囲気を盛り上げていた。
あたりを見回すと30前後のいかにも都会的な女性がこちらに手を上げた。

手がきれいだった。
マニュキアは透明でさりげなく化粧も薄く自然だったが着ているスーツは大人の女を感じさせた。
 

「私も今きたところ・・・えっと、私はドライマティーニをお願い・・・あなたは?」

「じゃ僕は・・・ギムレット。フレッシュライムをたっぷりと搾ってくれ。ジンはタンカレーで・・・」

「ギムレット? あなたが?・・・めずらしいわね。」

「ちょっとフィリップ・マーローを気取ってみたくってね。ところでさ・・・君と僕の関係を教えてくれないか?」
 

私はテーブルに映った彼女の反応を見ていた。
 

「ね・・・それ冗談でしょ?」

「ごめん・・・冗談じゃないんだ。僕は高木圭吾、32才・・・目黒区柿の木坂在住、TOKIO CITY NEWS政治部記者・・・分っているのはこれだけ。実は2月5日に大島でちょっとした事故に遭ってね。それ以来記憶喪失なんだ。」

「事故って?大丈夫なの?」
 

彼女の場合も驚きは他のみんなと同じだった。
私があまりにも素っ気なく言ったので嘘かもしれないとある部分では疑っているようだったが・・・
 

「そういうことって、本当にあるのね・・・でも、それなら確かにつじつまが合うわ。」
 

ひとりで納得したように一度頷いてからやにわに私の方を振り返った。
 

「だってあなたはもう何ヶ月も私に会うことを拒んでいたはずなのに、こうして会いに来てくれた・・・変よね。それに今までのあなたなら、1時間は私を待たせたわ。」

「どうして僕は君を拒んでいたんだろう?」

「それは、こっちが聞きたいわ。あの頃のあなたは何かに取り憑かれたようだった。いらいらしてて近づけなかった。毎日毎日江渕を追いかけて、私のこと見向きもしなくなって、電話をかけても出てくれなくなった・・・」
 

彼女は片手で長い髪をかきあげた。
 

「・・・でも、今のあなたはとても懐かしい感じがする。」
 

本当に懐かしそうだった。
 

「取り憑かれていたものから解放されたみたいに・・・穏やかな顔つきをしている・・・」

「そう・・・今はなんにも取り憑かれていない・・・君には随分と迷惑をかけたようだね・・・どうもこのまま記憶が戻らない方がいいみたいだ・・・」

「このままでも、あなたが私のところに戻らないのは同じことだわ。」
 

麻由美は、ドライマティーニを一気に飲み干しバーテンにお代りを告げた。
 

「あなたは、江渕を最後まで追い切れなかった。あんなに荒れているあなたを見ているのはとてもつらかったわ。私ではどうすることもできなかったの・・・そうだ・・・じゃ、まだ西田さんにも会っていないのね?」

「西田・・・?」

「アウトフォーカスの記者・・・あなたの高校時代からの親友よ。とても心配していたわ・・・えっと・・・これが連絡先。」

「アウトフォーカス・・・?」
 

記憶を失う前の私の生活はとても刺激に満ちている。
高木は非常に興味のある男だ。
 

「ありがとう、早速会ってみるよ。ところで・・・君のこともっと知りたいな。」
 

私は、少しときめいていた。
彼女と会ったときと、きっと同じように・・・
 

「ふふ、タイムマシンで5年前に戻ったみたい。私は、麻生麻由美・・・もう30・・・外資系の広告代理店クレイ社でクリエイティブディレクターをしているの。そして高木圭吾の元・・・恋人。」

「へぇ・・・広告代理店か。華やかな職場じゃないか・・・で、どんなことをしているんだい?」

「あらあら、私のことなんて全然気にも止めなかった人が・・・ま、いいわ。プリティギンブル社のラバーズというシャンプーを主に担当しているの。でも、世間が思っているほど華やかじゃないのよ・・・というか・・・むしろ地味・・・」
 

麻由美は、マティーニをグルグルまわしていた。
 

「コンセプトテストの繰り返し・・・コンスーマーのニーズと商品アイデアの接点を探ってインサイトで結びつける・・・簡単なことじゃないわ。早い話が“石橋をたたいて、粉々にしてちゃんと整地してから渡る”って感じかな・・・なのに会社は賞を取ることを求める・・・消費者の心をつかまないで審査員の心をつかめって言うの・・・矛盾しているって思わない?」

「はは・・・けっこう難しい言葉が飛び交う職場なんだね・・・」

「あ、ごめんなさい・・・私ったらいつのまにか愚痴っていたのね・・・なんだか、はずかしい。」

「いや、まったく未知の世界の話だから面白いよ。」
 

話ははずんだ。
彼女は生き生きとしていた。
おたがいにときめいていた頃のはじめてのデートのこと、はじめてのキスのこと・・・5杯目のギムレットを飲み干したときに私たちは店を後にした。

私たちは、彼女のマンションに向かった。
二人とも気持ちよく酔っていた。
彼女の部屋は15階建ての15階にある20畳ほどのワンルーム、フローリングでダブルベッドのマットだけでベッドメーキングしてあった。
すべてが床置きになっている。
大型のテレビ、ミニコンポ・・・丸いライト・・・ただそれだけ・・・家具は何もない。
ベランダに出ると東京湾が見えた。
2脚の椅子が並んで海の方を向いていた。
僕たちはそこに座り、東京湾を往来する船を眺めながらシャンパンをあけた。
それはとても口当たりが良く飲みやすかった。
僕は、ピンク色のラベルに書いてある名前が読めなかった。
 

「これおいしい・・・」
 

読めないことがわかったのか、彼女が言った。
 

「ドンペリって言うの・・・」

「またバーに行くことがあったら今度はギムレットじゃなくこれにしよう・・・」

「ふふ・・・私が一緒のときだけにしておいたほうがいいよ。」

「えっ?」

「プリティギンブル社にかんぱーい!」
 

二人とも現実とは違う心地よい夢の中にいた。

彼女の腕が私の首にまとわりついてきた。
唇が私の唇をむさぼり、首を這い・・・しかし残念ながらそれ以上のことは覚えていない。