3月10日
 

 霧笛の音で目が覚めたとき、麻由美はまだ寝息をたてていた。
麻由美を起こさないようにベランダに出ると潮風が気持ちよかった。
 

「おはよう・・・早いのね。」
 

自然光の中で見る彼女は一段とすてきだった。
 

「ごめん、起こしちゃった?いつもこの時間はジョギングから帰ってきて、ちょうどシャワーを浴びている頃かな・・・」

「あなたが?・・・ジョギング?・・・シャワー?・・・信じられない・・・」

ある種のショックを感じていた。
どうも記憶を失う前の私と今では相当のギャップがあるようだ。
 

「タバコも止めたのね。あんなにヘビースモーカーだったのに・・・何度も禁煙を試みて何度も挫折を味わったのに、自分がヘビースモーカーだったことさぇ覚えていないなんて・・・」
 

もし禁煙したければ記憶を失うといいかもしれない・・・
 

「そろそろ帰るよ・・・」
 

麻由美は、帰ろうとする私の背中に頬を押し当てて言った。
 

「また、会える?」

「もちろん・・・また、連絡するよ。」
 

青山のマンションに戻ったのは朝の8時だった。
誰にも気づかれないようにそっと入り自分の部屋を押し開けた。
 

「のりこ・・・どうしたんだ?」
 

目を真っ赤に泣きはらしたのりこが立っていた。
 

「遅いから心配してずっと待っていたんだもん!」

「ばかだな、夜通し飲んでいたんだよ。」

「麻生さんと?」

「あぁ・・・でも、なんでもないんだよ彼女とは。」

「なんでも、ないって?」

「つまりだな・・・その・・・」
 

・・・自分でも何を言っているのかわからなかった。
 

「・・・信じてるよ・・・」
 

私は、のりこを抱きしめた。
妹のように思っていたのりこがどんどん女になってゆく。

 

 田口から電話があったのは10時を過ぎていた。
昨日のことを報告して、今日は深大寺の陸橋あたりに行ってみるつもりだと伝えた。
田口の方はあまり進展していないようだった。

のりこは、そのまま起きていた。
 

「ごんべぇさん、今からまもる君に会うんだ。でもママには内緒ね。」
 

そういって飛び出していった。

私は、いつもより遅いシャワーを浴びてマンションを出たのは12時を過ぎてからだった。

先に柿の木坂によって車で行くことにした。

車は、深いグリーンのカルマンギアだった。

案の定、エンジンが言うことを聞かない。
かかりそうでかからずあきらめかけていたところへ、若い学生風の男が近づいてきた。
 

「手伝いましょうか?」
 

彼の車とケーブルをつないでエンジンをかけた。
頼りなかったが、心地いい音だった。
 

「バッテリーを早めにかえた方がいいかも知れませんね。」

「ありがとう、そうするよ。」
 

安定するまで、しばらくエンジンをかけたままじっとしていた。

記憶を失った私の体はまだ運転を覚えていた。
ギアをローに入れてゆっくりと確かめるように発信した
。いつエンストするかわからない。
最初に見つけたガソリンスタンドでとりあえずバッテリーを変えた。
ガソリンを満タンにして道路地図を買った。

私は、運転に慣れるために高速を使わなかった。

今日は、ポカポカと暖かくウインドウを開けて風を直接肌に感じながら走った。
環七を走り甲州街道を新宿方面に右折した。
そして新宿の駐車場に向かった。
200台は入るであろう結構大きなスペースを有していた。
C-8は一番出口に近い場所にあった。
奥だと死角になってしまう。
この死角は犯人にとっては逆に都合が悪かったのだろう。
警察の動きが見えた方がいいのだ。
このスペースにこだわるとすればかなり前から狙っていたに違いない。
便利な出口に近いということはそれだけ早めにうまってしまうからだ。
しかし、出口近くには監視カメラが備えてあったのだが、田口の話ではつや消しスプレーを吹いた後があったそうだ。
ぼかした幻想的な雰囲気を出すために写真撮影で使うものなのだそうだ。
つまりガムテープを貼ったり、真っ黒いスプレーを吹きかけると早めに気づかれてしまうが、つや消しだと軽く吹き付けるだけでいい。
少しぼやけるだけなのですぐに係員が駆けつけることもなく、また映った犯人の映像はぼけていて判別が不可能ということだ。
今ちょうどC-8から車が出て行った。

私は、甲州街道に戻り初台から首都高に入った。
まだ、少し車線変更に戸惑いがあったし、できるだけ事件当日に忠実に走りたかったので左の斜線をゆっくりと走った。
それでも後ろの車が遅いといってクラクションを鳴らしてくる。
これでは、警察も尾行はむずかしかったはずだ。
高井戸を過ぎてしばらくすると料金所がある。
そこから深大寺のバス停まではほんの3分ほど。
陸橋が立て続けに7本かかっている。
陸橋にはそれぞれ名前が付けられていた。
蛇久保、原山、北山、絵堂、深大寺上野原、深大寺池ノ谷、そして深大寺池ノ上。
それがバッグを吊り上げたという7本目の陸橋である。
バス停には誰もいなかった。
私は、そこで車を降りて橋の上を見上げた。

調布の出口はそこからさらに3分ほどかかった。
ふたたび甲州街道に入りこんどは逆に新宿の方に向けて走り先ほどのバス停の陸橋の上で車を停めた。

周りの人通りは少なかったがこの時間車は結構多かった。

下をのぞいてみた。
6メートルほどのロープがあれば事足りるように思われた。
多分、犯人は先回りしてここからトランシーバーで絵里子に指示を送っていたに違いない。
反対側からのろのろ走ってくる車のヘッドライトを見ていれば特定できるし、警察車両が尾行していないこともわかるからだ。
一月の終わりと言えば5時を過ぎるともうかなり薄暗かったはずだ。
ほとんど誰も気づかなかっただろう。

私は、陸橋を渡り左に曲がった100メートルほどのところにあるコンビニエンスストアーによって缶コーヒーを買った。

青山のマンションに戻ったのは夜の9時をちょうど回ったところだった。
のりこはすでに帰ってきていた。

のりこが可南子に聞こえないように口を近づけてそっと言った。
 

「後で話してあげるね。」
 

それを見ていた可南子が言った。
 

「のりこ、ごんべぇさんには言えてママには言えない話?」

「その、と・お.り・・・ふふふ」

「ごんべぇさんに会ってからのりこは本当に明るくなったわ。いっそのことごんべぇさんのお嫁さんにしてもらわなくっちゃね。」

「ママったら、知らない!」
 

可南子がいたずらっぽくウインクした。

私のために遅くなった夕食の後に、のりこが部屋にやってきた。
 

「マモル君ね、とってもかわいかった。どちらかっていうと絵里子さん似かな? 最初はちょっと人見知りしたけどすぐになれてくれたわ。」

「絵里子さんにも会ったのかい?」

「もちろん。彼女がマンション近くのコーヒーショップに連れてきてくれたの。でも、今でもマスコミがあとを付け回すんだって。だから、これからもそう簡単には会えないけど・・・こんどね、ディズニーランドに一緒に行く約束してきたの。だから、ごんべぇさんもそのときは付き合ってね。」

「あぁ、いいよ。」

今日の出来事を楽しそうに話すのりこの目は輝いていた。
これが、自らの命を絶とうとしていたのりこなんだろうか・・・
 

「絵里子さんは、不自由していなかったかい?」

「そうね、かなりいやがらせを受けてるわ。マモル君も幼稚園に行っていないみたい。私・・・こんどの犯人、許せない。マモル君や絵里子さんにはなんの罪もないんだもの・・・悪いのはパパなんだから・・・パパの罪は私の罪として受けてゆくわ・・・でも、マモル君は・・・関係ないじゃない!」
 

私は、のりこに何も言ってやれなかった。しかし、私も決してうやむやにはしない、私のこの手で必ず挙げてやる。正義感ぶっているこの犯人を私も許せなかった。
 

「それから・・・近頃ママの様子が変なの。」

「どうした?」

「時々ふさぎこんでいて何か悩んでいるみたいで心配なの。」

「きっと疲れているんだよ・・・かわいそうに・・・」
 

わたしは翌日、いつものジョギングをこなし、いつも通り朝風呂に入り、いつものトマトジュースを飲み干して10時になるのを待った。