3月13日
 

 のりこは、なかなか起きてこなかった。

いつものトマトジュースは可南子が作ってくれた。

可南子はドリップでコーヒーをたてていた。
ポットの先から糸を引くようにお湯を注いでいる。
柔らかく膨らんだ泡がクリームのようだ。
泡が崩れないように神経を集中していた。
気まずい空気の中にコーヒーのほろ苦い香りが広がった。

わたしから口火を切るべきだと思った。
 

「もし、僕にできることがあったら何でも言ってください。力になりますよ。」
 

可南子は、カップに煎れたてのコーヒーを注ぎ終わるまで何も言わなかった。

わたしは辛抱強く待った。

可南子は、コーヒーカップを両手に挟んで持っていた。
飲む訳でもない・・・ぬくもりを感じている訳でもない。

ひとつため息をついた。
そして今日始めてわたしの目を見た。
 

「安田という男にユスられているの・・・」
 

次の言葉を待った。
 

「安田は、2年前まで江渕の運転手だったんだけど、口が軽くてクビになったの・・・会長付きの運転手って結構な秘密を知り得る立場にあるのよね・・・でも、クビにしたことでかえって寝た子を起こしちゃった・・・最初は絵里子さんのことで江渕に500万要求したの。」

「それで、今度は可南子さんに・・・」
 

可南子は、頷いた。
 

「毎月50万ずつ現金で手渡したの・・・もう1000万にはなったかしら・・・江渕にはずっと内緒にしていたわ。」

「でも世間に知れ渡った今、もうユスられる理由はないじゃないですか。」
 

しばらくの沈黙があった。
 

「お金で済んでいるうちはよかった・・・汚職事件で江渕が会長を退くことになって、わたしに50万は苦しかった。お金で払えないなら体で払えって・・・」
 

田口は、安田のことを知っているのだろうか。

わたしは、西田の言葉を思い出した。
タレ込みは女の声だったと・・・
 

「可南子さん、江渕さんと絵里子さんのことをアウトフォーカスに電話したのはあなたですね・・・?」
 

可南子は目を丸くしてわたしを見た。
 

「アウトフォーカスの西田は僕の友人なんです。」

「そう・・・」
 

また、ひとつため息をついた。
 

「安田は、今度はマモル君のことを持ち出して江渕をユスったらしいの。」

「そして、また断られた・・・それでまた可南子さんに・・・?」

「もうわたしには江渕を護る気力も理由もなかった。だから、わたしは安田から解放されたかったの。」
 

誘拐事件の新しい局面を迎えていた。
 

「会社をクビになった安田は、江渕と絵里子さんのことをネタにユスッたが断られた。そして今度はそれをあなたに話した。あなたは江渕さんを護るために内緒で月50万を払い続けた。しかし、金が続かず体を許してしまった。金に困ったのは安田も同じで、今度はマモル君のことで再び江渕さんをユスった。しかし、江渕さんはそれも断った。安田は、そのことをあなたに話して50万を払い続けるように要求した。いいかげん嫌気がさしていたあなたは公にすることで逃れようとした。が・・・体を許したことでまた、ユスられている・・・」

「わたしは、もうだめね・・・」
 

そう言って、頭をテーブルにこすりつけた。
 

「50万を払っていた証拠は残っていますか?」

「いいえ・・・渡す時は現金で直接渡していたから・・・」
 

可南子は、不思議そうな顔をしていた。
 

「安田のことはだいじょうぶ・・・心配しないで僕に任せてください」
 

何をすべきかわからなかったが、そう言うしかなかった。
必ず、可南子を護る決意でいた。
わたしは、可南子の肩に手を置いた。
泣き止むまでずっとそうしていた。

扉の開く音がして振り向くと、まだ寝ぼけ眼ののりこが立っていた。
 

「ママ、コーヒー沸いてる?」
 

重苦しい空気がいっぺんに吹き飛んだ。
 

「遅いぞ、のりこ」

「だって昨日疲れちゃったんだもん。」
 

のりこの笑顔は天使のように純真だった。

 

 わたしは、二人を残してでかけた。
もう11時になっていた。

まず、安田の居所を調べなければならなかった。

マンション前の電話ボックスから就職出版社に電話をかけた。
 

「わたくし佐々木と言いますが、安田さんをお願いします。」

「安田と言いますと・・・営業二課と編集部に二人おりますが・・・」

「いや、確か運転手だったと思いますが・・・」

「申し訳ございません。その安田でしたら二年ほど前に退職しておりますが・・・」

「そうですか・・・それは困ったな。実は、安田さんのお母様が今朝方お亡くなりになりまして、どうしても連絡を取りたいのですが・・・」

「わかりました。このまま少々お待ちください。」
 

2分ほど待った。
そして住所と電話番号を聞き出した。

住所は、高円寺・・・行ってみたが当然のことながら既に引っ越していた。
田口に電話した・・・1時間待って突き止めた。

安田は、錦糸町に住んでいた。

廃家となった工場の2階の事務所に寝泊まりしていた。

わたしは、GパンにTシャツその上に革ジャンを羽織ってサングラスをかけていた。
目立つかもしれないし、錦糸町なら目立たないかもしれないし・・・

まわりには誰もいなかった。
気持ち悪いほどの静寂の中で遠くの方から下町の喧噪(けんそう)が効果音として時折インサートされる。
何か杭を打つ音がそれに調子を合わせてリズムを打っている。
革の手袋をはめるとドアノブに手をかけた。
ゆっくりと押しやって工場に入ってゆくと1階は整然としていた。
しかし埃だらけだった。
歩くとくっきりと足跡がついた。
穴の空いた天井からいくつもの光の筋が落ちていた。
いわゆる吹き抜けになっていて壁に沿って鉄のむき出しの階段が2階へと続いていた。
壁にチェーンがかかっていた。
チェーンをはずして右手に巻き付けると、わたしはゆっくりと階段を上った。
ギシッギシッと階段がうなり声を上げる。
2階は、もともと事務所だったのだろう。
ドアには30センチ角のガラスがはめ込んであった。
そこから、中をのぞいた。
ソファで毛布にくるまって寝ている男がいた。
2階は1階と違ってゴミだらけで雑然としていた。
そっとドアを開けて中に入った。
窓は天井に一つあるだけだった。
光の筋にそって埃がもうもうと舞っていた。

男は上半身裸だった。
年齢は40くらいだろうか、でっぷりと太っていた。
髪はかなり後退している。
この男とどんな気持ちで・・・アドレナリンが一挙に体中を駆け巡る。
足下のブリキでできたゴミ箱を思いっきり蹴飛ばした。
男は飛び上がってソファの後ろに隠れた。
 

「おまえが安田か?」

「なんなんだおまえ・・・?」

「おまえが安田か?」
 

男は、足下にあった一升瓶を拾うと突進してきた。
足払いを食らわせるとゴミの山につっぷした。
男は起き上がるとまたつかみかかってきた。
そこで左のあごにチェーンを巻き付けた右手でカウンターを一発ぶち込んだ。
腰からくずれてしゃがみ込んだ。
首根っこを捕まえて立たせると膝でみぞおちを蹴り上げた。
男はたまらずゲーゲーと吐いた。
男のズボンがゲロだらけになった。
わたしはかまわず顔面を蹴り上げた。
今度は血だらけになった。
その血だらけの顔面に立て続けに右のパンチをぶち込んだ。
 

「江渕可南子を知っているな・・・」
 

わたしは努めて冷静に低い声で言った。

男は怯えながら頷いた。
 

「これ以上、可南子につきまとったら・・・死ぬぞ。」
 

男は後ずさりしながら命乞いした。
 

「いいか、可南子のことは忘れろ・・・いいな?」
 

目に涙をうかべながらわかったと唇は動いたが声にはならなかった。
 

「聞こえない・・・」

「わ、わかった・・・」

「お前は、可南子を知らない。そうだな?」

「・・・そうだ・・・し、知らない・・・」
 

絞り出すようにやっと答えた。

わたしはまだ許す気になれなかった。
この手の(やから)は口先だけだ。

右腕を一気にへし折った。
男は気を失った。

 

 工場を出るとわたしは再び田口に電話をした。
そして安田が江渕をユスっていたということだけを話した。
そして、犯行現場近くのコンビニから発送された宅急便を調べるよう伝えた。

次に私は麻由美に電話をかけた。
無性に麻由美に会いたかった。
幸いに麻由美は家にいた。

錦糸町からタクシーで30分ほどだった。
海の匂いがたかぶった神経を落ち着かせてくれた。

麻由美は、髪をうしろに束ねていた。
白いロングのプリーツスカートに白のTシャツを着ていた。
 

「やぁ・・・」
 

他に何と言っていいかわからなかった。
麻由美は笑顔で応えた。

空きっ腹にはこたえるいいにおいが部屋中に漂っていた。

そう言えばもう3時なのに昼食をとっていない。
 

「お昼まだなんでしょ・・・」
 

ぐーっとおなかが鳴った。
麻由美がキャッキャッと声を立てて笑った。

スープにパスタ、それにサニーレタスとトマトのサラダが並んでいた。
 

「おいしそうだな。このスープはなんだい?」

「特製のクラムチャウダー、それにこれがウニを絡めたパスタ。」

「俺が電話して30分で作っちゃったのかい?」

「そ、女も30を過ぎるとね、手際が良くなるものなのよ。ね、ベランダで食べない?」

「いいね・・・」
 

穏やかな日差しを浴びながらのんびりと貨物船を眺めているのもいいもんだ。

記憶を失ってからすさまじい勢いで空白を埋めて来たので少々ここいらでブレイクタイムだ。

お互いに話すことはなかった。
麻由美はワインを片手にじっと海を見ていた。

のんびりと幸福な時間が流れていった。